『レンマ学』十(閑人亭日録)

 中沢新一『レンマ学』講談社二○一九年八月六日 第一刷発行、「第十章 レンマ的数論(2)」を読んだ。深淵にして深遠、なダイナミズム。ひたすら読み通す・・・のみ。私の脳、能力はとっても小さい。

《 しかしロゴス的知性のおおもとになっているのはレンマ的知性そのものであり、ロゴスへの変換が起こった後も、なんの変わりもなく同じ場所でレンマ的な知性活動は続いている。 》 246頁

《 ゼータ関数の研究から発した「絶対数学」の試みは、いずれ数学の世界全体のなりたちを変えていく可能性を秘めている。それによって人類の数学が、知性のロゴス面とレンマ面の境界を舞台としておこなわれる、無意識を巻き込んだ思考の行為であることの意味が、明確に理解されるようになるであろう。そのときには、法界の華厳的数論の試みなどが新しい意味づけを得てよみがえるにちがいない。 》 264頁

《 岡潔が考えたように(そしてレンマ学が考えるように)、数学と大乗仏教とが同じ本質を持つものであるならば、いずれ数学も含め、ホモサピエンス脳によるすべての学は、レンマ的知性という「絶対」の土台に基礎づけられものとなっていくだろう。 》 268-269頁

《 それゆえシンギュラリティという事態は、数学と言語の根源に関わるこのような問題の本質を変えることはない。 》 269頁

 味戸ケイコさんの絵画、北一明の焼きものを代わる代わる鑑賞。二人の作品にやはり最も惹かれる。価格じゃねえよなあ、価値だよなあ、とあらためて思う。現在価格が億を超えるような高価な作品は、手に余る。賞味期限の長~い作品こそ。味戸ケイコさんの絵も、北一明の焼きものも、四十五年前、半世紀ほど前の作。なのに時代を感じさせない深い魅力を秘めている。秘めている=誰もがその作品に惹かれるわけではない。感じとる人は感じる。その感応の違い。山梨県立美術館で期待しないで観た縄文土器、深鉢。その深い衝撃に遠く通底、谺する、味戸、北作品。作品の魅力は時空を超える。華厳経か?
 午後、内野まゆみさんと娘さんの三人で三嶋大社へお参り。混んではいるが、すんなり本堂へ。「こんなに混んでいるとは」と内野さんは驚いているが、元日なんか大混雑、大渋滞だから。きょうは遅い参拝なのでよかった。

 ネット、うろうろ。

《 パラグライダーの最中にクロコンドルと触れ合う男性、奇跡の体験過ぎる… 》 最多情報局
https://twitter.com/tyomateee/status/1609142661818257413

《 高校生が挑む!「エスカレーター乗り方改革」 》 NHK
https://www3.nhk.or.jp/news/special/lifechat/post_118.html

《 【「聞く」を連鎖させていくと、患者や家族の苦痛は不思議と軽くなってきます。人に話しを聞いてもらうことは、心の痛み止めなのです】 》 青山ゆみこ
https://twitter.com/aoyama_kobe/status/1609431495982354433

《 結局J-popの基層はフォークと、加山雄三的なものに桑田佳祐世代が付け加えたもので、しかしそれも定期的にフォークに戻る。そのさらに古層に昔の暗い童謡があり、ボカロはこちらに回帰している。 》 清水高志
https://twitter.com/omnivalence/status/1609228120980328450