里見龍樹『不穏な熱帯』七(閑人亭日録)

 里見龍樹『不穏な熱帯  人間〈以前〉と〈以後〉の人類学』河出書房新社二○二二年一一月三○日初版発行、「第五章 生きている岩」を読んだ。深まる思索。

《 このようにサンゴとサンゴ礁は、近代的な自然科学から見ても一つの未知の領域をなしているのであり、一方に盤石な「科学的知識」があり、それが他方の「文化的信念」を評価する基準となるという近代的な想定は成り立たない。 》 283頁

《 以上で引いたいくつもの言葉に見られるように、「生きている岩」をめぐるアシの語りには、われわれが「自然」と呼ぶものの、人間〈以前〉的な成長性や運動性についての認識、すなわち「岩」は自分たちの営みとは無関係に海の中でつねに育っているのであり、自分たちはそれを、言うなれば事後的に利用して暮らしているのだ、という意識が明確に表現されている。 》 283頁

《 そのようにこの人々は、島々が具現する「広義の自然」との関わりにおいてつねに自らを問い直し、そうすることを通して変転し続ける。 》 284頁

《 掘り出された「岩」は、先の日誌にもあったように、はじめ「スカ」と呼ばれる小山のかたちで海底に積み上げられる。この時点では、「岩」はまだ毎水の中にあるので、「生きている」とされる。 》 298頁

《 先のエリフォウ島がそうであったように、新たな島が創始される際、当初建設されるのは通常、その上に住居一軒がようやく建てられるだけのごく小さな島にすぎない。 》 299頁

《 ここで語られているのは、まさしく人間〈以前〉的と言うべき「岩」の生と、言うなればそれに寄生するようにして暮らすアシの人々の姿にほかならない。そして、本書が「自然/文化」の二分法に代わる新たな「自然」の思考を見出そうとするのは、まさしくここにおいてである。 》 300頁

《 今日の人類学において、認識主体としての近代的「人間」像と不可分に結び付いた「自然/文化」の二分法を離れて、いかなる民族誌を書くべきか。 》 324頁

 昼前、源兵衛川中流、水の苑緑地・かわせみ橋下流の茶碗のカケラ、ガラス片を拾う。ぐっと重くなって終了。帰宅。一汗。ふう~。コーヒーを飲む。

 ネット、うろうろ。

《 ブラッド・メルドーもまた「藝術はなんの役にも立たない」というオスカー・ワイルドの言葉を「彼はそうやって社会的意味にまつわる干渉から藝術の自治を守ったのだということに気づいた」と述べた。いわば一元的なロジックから、藝術のロジックを護るための「なんの役にも立たない」擬態であったと。 》 中島 智
https://twitter.com/nakashima001/status/1627576425665675264

《 仮定の質問に答えられないのなら、仮定の戦争に対して軍備を拡張するのもやめてくれ。 》 ラサール石井
https://twitter.com/bwkZhVxTlWNLSxd/status/1627853490025541632

《 ほんこれ。
  今の理系人材難は、30年前にポスト増なき「大学院重点化政策」見て既に予測できた。
  ポスドクの旅から未だ日本に帰ってこない知人がいるが、理由はポストに空きがないから。日本の会社も採用しない。博士を使いこなすマネジメント技術がない。(管理職はドラッカーの「マネジメント」位読め 》 リケマム
https://twitter.com/sakanoue_rakuen/status/1627917162039087104