カスパル・ダヴィト・フリードリヒ(閑人亭日録)

 一昨日ふれた『現代の絵画 7 19世紀の夢と幻想』平凡社 昭和48年3月30日初版第1刷では「カスパルダヴィト・フリードリヒ(1774-1840)」と表記されている。この画集に収録された絵画の中でなぜフリードリヒの風景画に他の画家の絵よりも群を抜いて惹かれるのか。あれこれ考えを巡らせて一つの仮説が浮かんだ。それは当たり前のように身近にある馴染んだ自然の、懐の深い何気ない魅力、というか、そういう自然の光景を描いたのではないか。驚異の自然ではなく心を解放させる自然を遠望する人のいる光景。
 それから飛躍して、味戸ケイコと北一明、二人の常設美術館を開設した深い理由に今頃、思い当たる。子どものとき身近に接していた自然(里山の雑木林)が、私のその後の人生に深く影響している。近代社会の只中で子ども時代を過ごしてきた大多数の人とは違う自然体験、自然観(自然感)が、心身に沁み込んでいるからではないか。フリードリヒの絵画に私の自然体験、自然観が交響する。そしてそれは味戸、北の二人にも交響するのではないか。味戸ケイコと北一明は子どもの頃、身近にある大自然に深く感応していた。そんな仮説が浮かんだ。
 パブロ・ピカソが先陣を切った二十世紀絵画の潮流は、若い画家たちが社会の中で躍動した絵。それらの多くは、自然とは隔絶した都市の人間社会を背景にしていたように思える。それが悪いというのではない。自然の只中を生きた縄文人の土器に身近に接した今では、現代絵画における激発の表現が、強固に構築された近代人間社会を反映しているように思える。それは日本人画家にも言えると思う。さて、変貌する社会の大波を乗り越える絵とは。私個人の管見、戯言(たわごと)である。