この数年、人に吹聴したくなる作品に出合っていない。山梨県立美術館で縄文土器を間近に観て以来、瞠目するような絵画、立体造形作品にお目にかかっていない。残念だ。絵画で瞠目したのは、国立西洋美術館で開催されたジョルジュ・ド・ラ・トゥール展か。ずいぶん前のことだ。ヨハネス・フェルメールよりも凄い、と思った。今でもその評価は変わらない。フェルメールの再来とうたわれたデンマークの画家ハンマースホイは、最盛期の五年間ほどの絵がよかったが、もう一度見たいとは思わない。西洋美術館収蔵のラ・トゥールの老人の絵はまた見たい。私はジジイだが、ジジイを描いた絵は見たくはないが、あの爺さんにはぐいっと惹きつけられた。絵のもつ磁力(訴求力)をひしひしと実感。名画だ。それに較べると、近代・現代絵画は・・・ま、人の好みと審美眼に口を挟めば唇寒し、だ。実際、ハンマースホイ展で友だちと「この絵はよくないね」とか感想を述べ合っていたら、係員から「そんなことは言わないでくだい」と注意された。大声で話していたわけではない。コチトラ、金を払っているんだぜ、と啖呵は切らなかった。パブロ・ピカソ『アヴィニョンの女たち』であれ、批判に耐える作品こそが歴史に遺る作品だろう。
毎年の公募展で大賞や最優秀賞を獲得した絵で、何点が記憶に残っているだろう。あるいはどこに収蔵されているだろう。個人か公的機関か。一年限りの注目作ではしょうがない。で、私が某公募展を前に提案したのが、「ブービー賞」の選定。応募作品で最もヒドイ(最低)と顰蹙を買う絵にあげる賞だが、即時に却下された。「これは何だ!ヒドイ!」と呆れられ、嘲笑された絵画が後年、歴史を創った名画と称賛される。発表時には顰蹙を買った絵が、後年称賛を得る。あるいは無視、黙殺された作品が、没後評価れる。つりたくにこさんのマンガはその一例だろう。最近では奥野淑子(きよこ)さんが版画協会展に応募して落選した木口木版画。展示では応募者名が間違っていて事務局へ抗議した。この作品はネットには見つからない。私はもっている。