小さい絵の額を立てる万能台(閑人亭日録)

 雨の一日。思い立って小さい絵の額を立てる台を手元の木片を使って製作した。簡単に組み立てられ、分解できる木製の台。土台を二等辺三角形に。底辺は幅のやや広い板材。△につなげて床に置く。底辺は二辺より出っ張っている。底辺に額を立てる。△の頂点と額の裏側の上部の出っ張りに棒を架ける。絵を見やすい角度に棒の長さを調節する。よしよし。出来上がり。内田公雄の小品を立てかける。こりゃいいわあ。壁に掛けたよりも絵に集中できる。「なにしてるの?」と友だちが見に来る。「あら、内田さん、いいわねえ」。小さい絵は卓上に置いた額台に載せて鑑賞をすることを勧奨。
 http://web.thn.jp/kbi/utida1.htm
 上記サイトの『作品95-W-2〔記〕』を連想。手元の小品は1987年作。先駆的作品のようだ。
《 この銘文は解読できません。これは、画家が考え出した意味不明の文字もどきだからです。 》
 大きさはまるで違うが手元の小さな絵のほうが密度がはるかに濃い。ここからが難問。密度が濃い薄いを作品の優劣の判断手段に使えるか、どうか。私の考えでは、使えない。密度が濃いと言えば、作品を高く評価しているように感じられる。しかし、言葉を替えれば、密度が濃いとは息が詰まる、という意味につながる。密度が薄いとは、肩の力が抜けている、開放的であるにつながる。密度が濃いは生真面目につながり、密度が薄いはユーモアに通じる。夏目漱石で言えば、密度が濃いのは『心』。密度が薄いのは『吾輩は猫である』。どちらの作品が優れているのかは、好悪に委ねるしかなさそうに思える。なにせ作品の方向性が違うのだから。では、密度が濃い薄いでは判断に使えないならば、何が作品の判断に使えるか。それは論理、理論ではなく、その人の感性と審美眼によるしかないだろう、というのが、私の現在の考え。美術作品の優劣の判断は、知識・経験・直観といわれるが、その三点が揃い踏みしたからといってその評価が長年にわたって至当な評価とされることは、なかなかないことを歴史が証明している。時代が変われば評価も変わる。そんな歴史の断絶、地殻変動に耐えて生き残った作品、また忘却され、再発見~再評価された作品が、優れた作品だろう。この小さな絵は後世に評価されると予想(期待)しているが、それは私の死後のことだからなあ。大いに吹聴して(?)楽しまなくては。
 在りし日のオシャレな内田さんが思い浮かぶ。なんか遺影を連想。
 使わなくなった蒸し器のすのこを少し切って小さくし、土台の△に載せてピンで固定。味戸ケイコさんの小さい絵の額に立てかける短い棒をすのこに引っ掛ける。もっと小さい額の絵もじっくり鑑賞できる。大きさが違っても、オッケー。雨の日の工作、終了