昨日、味戸ケイコさんに手紙を認めたが、その時はっと気づいた。味戸さんの絵の背景の漆黒に、長谷川潔の銅版画(メゾチント技法)の漆黒の背景への連想が浮かんだ。まぜ今まで気づかなかったんだろう。長谷川潔のようにそれが「売り」ではなかったからか。銅版画と絵本(イラスト)という、作品の発表分野が違うからか。その垣根を超えて、その黒の技法は、私の中で反響、谺する。長谷川潔のメゾチント技法による銅版画は、仄暗い舞台に設置された様々な小物や植物がしっかりした意図のもとに配置されている。見る者はモノとモノとの配置関係からある世界観、物語などを見い出す、と私は考える。長谷川潔『白昼に神を視る』白水社 昭和五十七年三月十八日発行を少し読む。
《 10 写実であろうとなかろうと、自然をいっぺん通してから進まなければならない。ともかく自然の内部にいくらでも重要な「要素(エレマン)」が隠されているのであって、これをいかにつかむかが問題なのだ。 》 13頁
《 26 西洋の油彩は塗り重ねればよいと思ふのはたいへんな間違ひです。或る時セザンヌの未完成の繪を見て、はつきりとそれが解りました。麦藁帽をかぶつた、植木屋のやうな男を描いた繪なんですがね。(引用者・略)その未完成の、inahevees の、taches の一つ一つが、何とも云へぬ完成であつた。第一流の天才は完成して署名するまでもなく、その道程が悉く完成なのです。(引用者・略)
ピカソは未完成の繪をルーヴルに収めているが、あゝいふ繪はどこで失敗するか判らない。あれは先にあるかも知れぬ困難をごまかしたものです。二流以下の人は最後まで描かねば飽くまで未完成品です。どこまでうまくいつて、どこで破綻するか判らない。 》 17-18頁
《 30(引用者・略)偽り多い現代社会に即して何が生まれましょう? 自然を深く観察すると驚くべきことを発見します。(引用者・略)どこまでも大自然を離れては自分は存在しないのであり、あらゆる存在物を通してわれわれに示されているものを了解しなければならない、問いに明答を与えなければならないように小生は感じます。過去の芸術のみにあまり気をひかれぬこと。様式、技巧、主義、テオリー等々にのみ立脚しないこと。(引用者・略) 》 19頁
《 私のあつかう花、小鳥の意味はまったく別の世界を表わさんと試みたものです。 》 20頁
長谷川潔の銅版画は一点もっている。この本にも掲載(369) 。
http://web.thn.jp/kbi/kiyos1.htm
故つりたくにこさんの夫、高橋氏からショートメール。つりたくにこさんへのオマージュ作品が公開された、とのこと。
《 Blutchと言いう人が「そらは青空」のラストページを大地を赤朱色、雲とオートバイ乗りのシャツを黒で着色。続く二枚目はセザンヌ描く娘たちが林間にいる構図に件の乗り手がイージーライダー風で嵌まっていてマリファナの匂いがする、大きさが判りませんがそういうオマージュであります。 》
ポンピドゥー・センターはつりたくにこ祭り、かな。すごく気になる。