昭和の時代、塩羊羹を作っている鰻屋の店主が語ったことが思い出される。普通の羊羹なら隠し味に僅かな塩を加えるだけだが、塩羊羹では塩加減がじつに難しい。甘みを味わうと同時に塩の存在をも感じさせ、相反する味の絶妙なバランスをとるのはじつに難しい、と。私も羊羹は作ったが、塩羊羹には手を出さなかった。と言うのも、周囲の人は、その店主の作った塩羊羹を、塩味の効いた羊羹としか思っていなかったから。それを思うと、以下のバランスの技を連想する。
《 日本人女性が見せた神技に世界が衝撃!「完全に言葉を失った」「これこそアート だ」 》
https://www.youtube.com/watch?v=8wP5454WhgQ
美とは何か。美の魅力とは何か。昨日も抜き書きしたように長谷川潔も考えている、”単に美しいというようなものでなくて、”だ。このような難問を私もどきが解けるはずもないが、美は単に美しいというようなものではなくて、が、一つの鍵になるな、と思案を巡らし、塩羊羹に思い至る。美味しい(美しい)羊羹は隠し味が効いている。では塩羊羹は。甘味と塩味が絶妙の配合で張り合い、釣り合っている。いや、それはバランスがとれている、というだけではない。甘味と塩味が拮抗している関係だ。物理学でいう引力と斥力が拮抗する関係というような。比喩でしか語れないが、余人の及ばぬ高度な地点でのギリギリのバランス。美しいとは人の眼を惹きつける言葉。美とは人の眼を惹きつけ、同時に隔たりをも感じさせること、モノ、かな。美は、いわば引力と斥力のせめぎ合いの中に位置している…ゆらぎ。というのが、拙者、拙考の現在の到達点。
神秘=謎は科学の力によって少しづつ明らかにされる。曜変茶碗の神秘=謎は北一明によって科学的実験によって解明され、耀変茶盌へと美が深化した。そしてさらに奥深い変幻の美を現わす。北一明の耀変茶盌を卓上に置き、距離を置いて鑑賞する。そっと手にするのは取り出し、収納するとき。あまり手を触れないのは、何じゃない、私が粗忽者だから。