『庭師ヴァリエの肖像』(閑人亭日録)

  画集『セザンヌ婦人画報社1996年9月10日初版を開く。この大判の画集(二万円!)を出版当時、知人女性から恵まれ、喜んで開いた。「サントヴィクトワール山」を描いたいくつかの絵を見、あらためてスゲエなあ。それから鉛筆・水彩『083 庭師ヴァリエの肖像』1906年 48×31.5cm バーグランコレクション(ロンドン・ナショナル・ギャラリーに寄託)を見る。一見、紙に鉛筆と水彩でざらっと描いたようだが、初見の時に瞠目。きょうもやはり目を瞠る。油彩画よりも魅力を感じる。その理由は3日(月)の日録にある長谷川潔のことば。再掲。

《 西洋の油彩は塗り重ねればよいと思ふのはたいへんな間違ひです。或る時セザンヌの未完成の繪を見て、はつきりとそれが解りました。麦藁帽をかぶつた、植木屋のやうな男を描いた繪なんですがね。(引用者・略)その未完成の、inahevees の、taches の一つ一つが、何とも云へぬ完成であつた。第一流の天才は完成して署名するまでもなく、その道程が悉く完成なのです。 》

 画集巻末の評伝、川島ルミ子「孤高の軌跡」を読む。

《 セザンヌにとって、自然はあまりにも複雑だった。自然を目の前にした時の感動は、あまりにも大きかった。
  彼は観察し続ける。自然が語る声を聞こうとする。その本質を探ろうと努力する。
  自然が人の目に訴える色と形をセザンヌは、いかにしてキャンバスに表すことが出来るか。セザンヌは、自然が自分に与える感動を分析しつつ、絵筆を動かし続けるのだった。
  後に、印象派の巨匠と言われるようになるクロード・モネについて、〈モネは眼にすぎない。しかし、何という眼だ〉。と、セザンヌが語った時、絵画においては、眼で見るものを描くだけでは不十分だ、と言いたかったにちがいない。 》 184頁

《 自然を、目に見える通りにキャンバスの上に〈復元〉することに、セザンヌは疑問を抱き、満足していなかったのである。
  エミール・ベルナールに宛てた手紙の中で、セザンヌは語った。〈自分の目の前にあるものの中に入り込み、できるかぎり論理的に表現することに、固守することだ〉。 》 185頁

 セザンヌは、長谷川潔と同じようなことを考えている。気づかなった。それにしても、美術画集の重いこと。