床の間に置いた『青瓷花瓶』(四代諏訪蘇山・作か)が気になる。朝日を受けての佇まいは地味~というか刮目するほどではない。午後、日差しが傾いてくると、地味~な色合いが深~い色に変化する。今は午後六時。青瓷はいよいよ深みを増す。見る者=私をその深みに惹き込むような深い艶、色香とも言いたくなる景色を魅せる。葛原妙子の短歌が浮かぶ。
他界より眺めてあらばしづかなる的となるべきゆふぐれの水
花瓶には水も花もない。が、端正な花瓶の立ち姿がなぜか何とも美しい気品を発している。三十年あまり前、地元のギャラリーで造形に一目惚れして買った。以前は日中に畳に置いて鑑賞した。造形は見事で非の打ちどころがないが…何か物足りない。きょう夕暮れ間近に鑑賞して、この青瓷花瓶の魅力にやっと気づいた。鑑賞に最適な時刻と空模様、ということはたしかにある。それは焼きもの、特に青瓷や曜変、耀変作品に言える気がする。
何も足さない、何も引かないという言い回しがあるが、この清楚な『青瓷花瓶』にピッタリだと思う。世の中、意識過剰、情報過多に辟易する。現代美術の作品も同様。制作意思、意図が目立ち過ぎて、じっくり鑑賞するまでもなく「はあ、そうですか。凄いですね」と通り一遍の誉め言葉で済ませ、早々に退出。制作意図、主張があるのは構わない。それがスローガンのように、選挙の拡声器の発声のように迫ってくる作品は、私は苦手。美術作品は静かにそこにある。その立ち姿から何かを感じる人は感じ取る。感じない人は感じない。説明を受けて「ああ、そうですかあ」とワカル人・・・にはなりたくはない。
そんな他愛ないことを思っていると日は翳り、宵闇に包まれた。ああ、魅せられる時は、短い。