マンガ雑誌『ガロ』1985年9月号 青林堂が届く。この号には「追悼 つりたくにこ」が掲載されている。この頃は『ガロ』の読者ではなかったので、亡くなったことも知らなかった。追悼記事も知らなかった。水木しげる他五人の漫画家、文筆家が追悼文を寄せている。上野昂志の追悼文から。
《 わからないことが、いくつもある。一つは、これは当時からそう思っていたことだが、話がひどく観念的なことだ。(引用者・略)むろん彼女自身にも、自分のことを問題にしようとすると、すぐさまそれを生硬な観念に置きかえないと気がすまないような、いってみれば身体感覚の欠如みたいなものがあったことは確かだ。しかし、そういうつりたくにこであっても、七〇年代に入ってから作家的的出発をしていれば、ある意味ではもっと自由になれたと思えるだけに、この観念性にはやはり時代が大きく作用していたということだろう。それと、この観念性は、彼女が”女”ということに抗って、男たちに伍していこうとしたところに出てきたものかもしれぬと思えば、十分に同情できる。
その意味では、つりたくにこは決して卓越した作家ではなかったが、やはり一人の先駆者であったと思うのだ。 》
まともな論評はこの追悼文だけだが、内容は、私に言わせれば、的外れ。
きょうの東京新聞、文化欄のコラム「大波小波」脇は飯沢耕太郎編著『泉鏡花きのこ文学集成』作品社を話題に。
https://sakuhinsha.com/japan/30328.html
《 鏡花の在り方はキノコに似ている。(引用者・略)人々が群れをなして怨恨を競い合う現在、飯沢がアンソロジーを組んだことの批評的意味は大きい。
キノコといえば、次は藤枝静男とつげ義春だ。キノコアンソロジーの続編を編む御仁はいないだろうか。 》
藤枝静男とつげ義春とは。へえ~。きのこ、記憶にない。