ハーバート・リード『芸術の意味』みすず書房1989年4月25日 第22刷、「I」(概論)を読んだ。はじめから惹きつけられる。
《 3 美の定義
現在通用している美の定義は少なくとも十二ぐらいある。しかしすでに述べた、美とは五官が知覚する形式上の諸関係の統一である、というたんなる物理的な定義は基本的な唯一の定義であり、この基礎の上にわれわれが必要とする包括的なすべての芸術論をつくりあげることができる。しかしまず最初に、この美という言葉の極端な相対性を強調することが大切であろう。芸術は美と何の必然的な関係もない、というほかはない。 》 12-13頁
《 われわれの芸術についての誤解の大部分は、芸術という言葉と、美という言葉を使うときに首尾一貫したものをもたないところからおこるのである。 》 13頁
《 このように芸術と美とを同一視してしまうことが、いつも芸術の鑑賞を困難にする原因となっている。そして美的な印象一般に非常に敏感なひとびとにとってさえ、芸術が美ではないという特殊な場合に、この仮定が無意識に非難者として振舞っているのである。というのは芸術は必ずしも美ではないからである。 》 13頁
《 芸術とはある特定の理想を造形的な形式で表現したものではないということをわれわれは認めなければならない。 》 15頁
《 そしてわれわれが芸術を「造形の意思」とよぶときに、われわれは極度に知的な活動を想像しているのではなくて、むしろ本能的な活動を想像しているのである。 》 17頁
《 ギリシアの壺は正確に幾何学的法則と一致している。そしてこのためにこそ仕上がりが冷たく、生命感を欠いているのである。素朴な農民の壺にはしばしばはるかに迫力と喜びがある。実際、日本人は真実の美はそんなに規則正しいものではないと感じるので、轆轤で自然につくり出される完全なかたちをわざと毀すことがあるのだ。 》 20頁
《 ここに芸術と感傷との基本的な相異がある。感傷は解放であるが同時に情緒の弛緩であり、緩和である。芸術は解放であるが同時に緊張である。芸術は感情の節理であり、それはすぐれた形態をつちかう情緒である。 》 27頁
《 22 内容のない芸術・陶器
まず陶器はすべての芸術のなかで、もっとも単純であると同時にもっとも難解なものである。それはもっとも基本的であるゆえにもっとも単純である。そしてもっとも抽象的であるゆえにもっとも難しい。歴史的にいえばそれは芸術の先駆けである。(引用者・略)陶器は純粋芸術でありどんな模倣的な意図とも縁がない。(引用者・略)陶器はそのもっとも抽象的な本質において造形芸術なのである。 》 28-29頁
《 しかしまず最初に線は輪郭を示す以上のことができるということに注意したい。巨匠の手にかかると線は運動と量塊の両方を表現することができる。動いている対象を描写するというはっきりした意味だけでなく(それはあれこれ選択する眼の観察に線を適応させるということであるが)、もっと美的に、線自身の自律的な運動を獲得することによって、ものをありのままに写すという目的とはまったく関係のない歓びでページの上をおどることによって運動が表現される。 》 35頁
《 象徴とは漠とした主観的なことにすぎない。多くの芸術はその形態の点から見れば、こうした象徴的な形態の創造から、おそらく無意識的に訴求力を引きだしていることは確かなことのようである。 》 45頁
《 しかも鑑賞者がこのおのおのの場合の芸術家の意図を前もって理解していたとすれば、たしかにこの感受性はいっそう自由に受け取られるのに有利だということは明らかである。しかし芸術の訴求力というものは、決して意識された概念ではなく、直観的な理解であることを忘れてはならない。芸術作品は思想で存在するのではなく、感情で存在するのである。それは真理の直接の説明というよりはむしろ真理の象徴である。この理由で、ここで説明のためにのみ暗示したような芸術作品のことさらな分析では、芸術作品から引きだされる歓びに導くことはできない。このうような喜びは全体としての芸術作品から直接に伝達されるものである。 》 46頁
午後、畳にゴロンと横になり吹き抜ける微風を素足に受けて心地よく微睡んでいると、通りからデカイ声で何やら話しかけている声がする。旅行客か?と三階から通りを見下ろすと、向かいの歩道を男が歩いている。その横と後ろから小型カメラを向けている人たち。友だちに聞くと、テレビで見るお笑い芸人だと。源兵衛川を下って行った。テレビ取材か。男じゃなあ。