『芸術の意味』二(閑人亭日録)

 ハーバート・リード『芸術の意味』みすず書房1989年4月25日 第22刷、「2」(原始芸術~近代彫刻)を途中まで読んだ。じつに面白い。特に注目した箇所を抜き書き。

《 だから、ニグロやビザンティンの芸術家や近代のキュービストなどの非生命的な芸術に感じられる様式化と抽象化の代わりに、すべての線が運動と生命を表現している芸術をここに見いだすわけである。 》「30 ブッシュマンの絵画」52頁

 上條陽子さんの絵の解説(拙文)を読むよう。
 http://web.thn.jp/kbi/kamijo.htm
 http://web.thn.jp/kbi/kamij3.htm

《 ところが一方原始人たちの生命的な芸術は自然への共感をもっている。それは有機的な曲線を採用して、生気を増している。それは温和な海岸、豊饒な土地の芸術である。それは生きる悦びの芸術であり、世界に信頼をもつものの芸術である。植物、動物、そして人体の形そのものがやさしい配慮で描かれ、しかも芸術が正確な模写から離れている限りでは、それはいよいよ生命的な衝動を増してゆく。 》「32 有機的な芸術と幾何学的な芸術」54頁

 縄文土器の火焔鉢。

《 何がすぐれた芸術であるか、ということで意見を同じくする人は二人といない。(引用者・略)芸術は自己表現である、という説はあまりわれわれの役に立たない。いったい表現された「自己」というものは何ものであろうか。 》「35 芸術とヒューマニズム」59頁

《 理解の範囲をこえて、どこか遠くへ心を遊ばせるのがつねに芸術の機能である。この「越えて遠くへ」ということは、精神的であることもあれば先験的であることもあり、またおそらくたんに幻想的であることもあろう。 》「39 ピラミッド」65頁

 つりたくにこのマンガ作品。

《 しかしすべてこれらの素描も、視線の集中というものがみられる点で共通している。画家もついで鑑賞者も、一時に一つのものをみているのである。(引用者・略)素描の研究はすべての科学的な芸術批評の基礎であるばかりでなく、個々の感受性のもっともよい訓練である。(引用者・略)世間が肩ごしに覗きこんでいるという意識をもっていない。自分自身のよろこびのために、自身の心の奥底を探るために書いたり描いたりするのである。(引用者・略)素描が一つの独自の芸術であること、さらに彩画や彫刻にすすむ場合、そこにまた一連の異なった価値が見いだされることを知ることが非常に大切であるという理由がそこにあるわけである。 》「52 素描芸術」88-89頁

《 というのは近代芸術の主潮は、多少のロマンティックな傾向を例外として、知性の再統合に向っているからである。これが批評家の大多数の予想に反してキュービズムがなお現存している理由であり、近代的な感受性の典型的な代弁者と当然考えられてよいピカソのような現代作家たちの造形方法でもあるのだ。しかし知性の再統合とは何を意味しているのであろうか。それは知性を芸術の基礎として用いる権利にすぎない。(引用者・略)これらの意想なり情緒なりは、それが芸術作品である感受性の完全な組織に向う出発点にすぎない。その組織は意識的であるにしても、本能的であるにしても、われわれの感受性の全領域につながる能力をもった複雑な統一体なのである。 》「53 知的芸術」91頁

《 とくに近代的な様式というものがあることを主張しないかぎり、ロココ芸術は、ヨーロッパにおける独創的な様式の最後の現われである。十八世紀の後半から二十世紀の前半にかけて行われたさまざまな様式は、本質的にいえば派生的なものであって、ほんとうの意味での精神形態の現われではなく、むしろ文化と教育の上に起ったものだった。 》「59 バロックロココ」101-102頁

《 風景画を他のものからいちじるしく際だたせる特質に、もっと決定的な名をあたえようとすれば、これは「詩(ポエトリ)」と呼ばれねばならないだろうと思われる。 》「63 風景画」110頁