ハーバート・リード『芸術の意味』みすず書房1989年4月25日 第22刷、「2」(原始芸術~近代彫刻)後半を読んだ。
《 私はここで、精神と感覚の明瞭な性質を示し、また芸術運動の新しい発展を暗示していると考えられる、もっと近代的な二人の芸術家について語りたい。その第一はパウル・クレーである。 》「81 パウル・クレー」161頁
《 クレーはあらゆる近代芸術の運動から、とりわけ立体派、表現派、未来派というようなレッテルから切り離して考えなければならない。彼は近代画家のなかでもっとも個人主義的である。シャガールと同じように、彼も自分の世界──それ自身の不可思議な植物界と動物界とをもち、それ自身の遠近法と論理とをもった世界──を創造した。 》「81 パウル・クレー」162頁
《 クレーの素描はその単純さ、美しい神経質な線、意味深い細部の意想外な観察、魅力のある幻想といった点で子供の素描に似ている。しかしそこにはひとつのもっとも重要な相違がある。それはクレーの素描には機智があるということである。彼の素描は知的な公衆に話しかける。つまりわれわれを狙っているのである。 》「81 パウル・クレー」162頁
《 たしかなことはわからないが、クレーはある程度の近代心理学の知識をもっていたのではないかと私は臆測している。それほど彼の芸術は近代心理学と一致しているのである。 》「81 パウル・クレー」163頁
《 われわれが意識的な思考の過程で偶然にすることを、画家は線を引く過程で偶然にするであろう。しかしクレーはこの前意識の世界を意識にもちこむことを望まない。むしろ彼は潜在意識の世界の独自な性質を暗示し、その世界に住み、意識の世界を忘れたいと願っているのである。記憶の残滓の世界、脈絡のない映像の世界へ逃れることを願っているのである。(引用者・略)内の世界はそれとは別の、もっと不思議な世界である。それは探検されなければならないものだ。芸術家の眼は鉛筆に集中される。鉛筆は動き、線は夢みる。 》「81 パウル・クレー」164頁
《 われわれはときには物の外観を表現し、ときには物の実在を表現し、ときには理想を具体化し、ときには未知なるものを探り、ときには実在の新しい秩序をさえ創りだすといった非常に異なった目的のために、芸術の法則、芸術の技術を用いる。芸術のこれらすべての用途は正当なものであり、そしてすべては近代彫刻の発展のうちに示されているのである。 》「81c 近代彫刻」174頁
「2」(原始芸術~近代彫刻)を読了。短い最終章「3」を読んだ。
《 それは驚異または賞賛の状態であり、さらにもっと冷淡に、しかも正確に、認識の状態といった方が適切な表現である。芸術家に払うわれわれの敬意は、われわれの感情の問題をその特殊な天賦の才能によって解決してくれた人間に払う経緯なのである。 》「87 伝達──感情と理解」188頁
《 それは芸術家の直観の力によってのみ把握することのできる理想的な均衡または調和の表現なのである。その直観を表現するに当って、芸術家はその時代の事情によって彼の手近かにおかれた材料を使用するだろう。(引用者・略)彼は自分の造形の意志を表現するのに役立つかぎりどんな条件でも受けいれる。そして歴史の大きな推移のなかで、芸術家の努力は自分の予知できない力によって拡大されたり縮小されたり、あるいは採り上げられたり却けられたりする。しかしそれは彼が実証した価値にほとんど関係のないことである。 》「90 究極の価値」189頁
ハーバート・リード『芸術の意味』読了。半世紀以上前の古い本だが、内容は古くない。この半世紀の美術論よりもはるかに信頼が置ける内容。こうでなくちゃ。当然異なる考えはあるが、それもそうだな、と異論をはさむほどではない。名著だ。巻末の図版、ピカソは『鏡を見る女』1932年。以前にも書いたが、中学三年の学習雑誌の巻末の美術ページでこの絵に出合い、実物を見たいと願った。三十年後、上野の森美術館で開催されたニューヨーク近代美術館展でこの絵に遭遇。畳一畳ほどの大きさの絵に見惚れた。ピカソではやはりこれがいい。
https://www.artpedia.asia/work-girl-before-a-mirror/
晴天の真夏日。西側の書斎は如何せん暑い~。この夏初めてエアコンを起動。29度設定でも涼しく感じる。ふう。