気温午後二時36.4℃。エアコンの設定室温29℃で快適午睡。気持ちよく目覚め、さて、なにをするか。何の用もない。この猛暑のもと、そばの源兵衛川へ涼みに行く気も起きない。机上の書類に埋もれた本、塚本邦雄『王朝百首』文化出版局 昭和四十九年十二月五日 第一刷発行を掘り出す。「はじめに」冒頭。旧漢字歴史的仮名遣いだが、新漢字現代かな遣いに改める。
《 かつて咲き匂った日本の言葉の花を、今日私たちは果してどれほど瑞(ただ)しく深く享(う)け継いでいるだろうか。(引用者・略)万葉、古今、新古今、あとは芭蕉に蕪村、晶子、啄木の歌や句のいくつかをくちずさむ人も次第に少くなってゆこうとしている。(引用者・略)これらすべてが私たちのもつ繚乱たる詞華の遺産であることなどほとんどの人に無縁となりつつあるのかも知れない。惜しんでもあまりある伝統の放棄と言えよう。あわただしい日日のひととき、ふと目を瞑(つむ)って私たちの血のはるかな源にかくもうつくしい詩歌が生れていたことえを思い起そう。古典は意外に親しくかつ新しいものだ。 》
気持よい目覚めに引用の最後が心に響く。”古典は意外に親しくかつ新しいものだ。”
それにしても午後五時で35.3℃。近所へ買い物に出たら灼熱の陽射し・・・。直行直帰。ふう。牛乳たっぷりの冷えたコーヒーを飲む。美味しい。汗が収まり、本を再び開く。「はじめに」より。
《 現代人には不当に無縁の状態で放置されていた伝統文学の血脈は、この時春の潮のようにいきいきと私たちの魂に蘇ってくる。一首のうつくしい歌とはこうして次元を隔てた人と人との交感のなかだちとなり、未来にむかって生き続けようとするのだ。(引用者・略)『王朝百首』は全文ことさらに歴史的仮名遣いを採用した。引用掲出の作品、あるいはそれに即した鑑賞解説との微妙な共鳴効果のためでもあり、伝統的仮名遣いの精妙さと正統性を不知不識に会得するよすがともななろう。 》
私が起こすのは無理無謀。ただ読んで味わうのみ。そして最初の一首。在原業平(ありわらのなりひら)。
月やあらぬ春や昔の春ならぬわが身一つはもとの身にして
《 あたかも早春、梅と月との背景を前に演ぜられるドラマの、それも終幕(まくぎれ)の見栄(みえ)を見るような心地がする。 》 22頁
旧漢字はともかく歴史的仮名遣いでないと、言葉の表現がかなり軽くなるようだ。私の拙文はずいぶん軽い・・・。