やや強い風の吹く曇天。直射日光が当たらないだけ過ごしやすい。朝の作業を終えてコーヒーと冷たい牛乳で一休み。冷房は設定室温28℃。本棚に留めてある三枚の半券の入場券。「コートールド美術館展(マネ)」、「鏑木清方 幻の《築地明石町》特別公開」、「ハマスホイとデンマーク絵画」。以前にも取り上げたが、モデルの女性三人、楽しそうではない。女性の地位が低かった時代の絵だからだろうか。ならば反証としてルノアールの絵が挙げられる。楽しそうでないからといって三点の絵がつまらない、モデルに魅力がないのではない。一瞥、ふっと惹かれる訴求力がある。味戸ケイコさんの絵はどうだろう。
http://web.thn.jp/kbi/ajie.htm
http://web.thn.jp/kbi/ajie2.htm
楽しい表情、雰囲気の絵は、私の記憶にはほとんどない。深い思い~愁いを感じさせる絵が大部分だろう。味戸さんはそんなことを意図して描いているのではないだろう。ワクワク楽しそうではない雰囲気の絵になぜ惹かれるのか。1970年代、ネクラ(根が暗い)という、地味で性格が暗く見える人を揶揄することばが流行った。山崎ハコの歌はネクラと揶揄された。味戸ケイコさんの絵がネクラと言われたことは、管見では一度もない。思い返せば不思議だ。暗いではなく”こわい”と耳にしたことはあった。
つまるところ、マネ、ハンマスホイ、鏑木清方の三人は、若い日の感性の成長を、社会環境を主な場としてきた。味戸さんは、生(なま)の自然環境が、若い日の感性の成長の主な場となった、と私は推測する。椹木野衣は書いている。
《 「味戸ケイコの絵はほんとうに生命の傍らで描かれている。」
「さまざまなメディアの拡張を遂げてきたアートの進歩性とは逆に、ふるえる手の転び方では死とも生とも受け取れる両義の絵を彼女は残すのだ。」 》
http://web.thn.jp/kbi/ajitoron.htm
私の視線ははるかなる縄文へ向かう。こんなことを書くのは、昨夕投函した手紙の余波だなあ(独り言)。