宮本常一『日本民衆史7 甘藷の歴史』未來社一九六二年一〇月一〇日第一刷発行を少し読んだ。甘藷の発見と伝来、じつに興味深い。
《 コロンブスの発見した大陸がアジア大陸とはまったく別のものであることをたしかめたのはアメリゴ・ヴェスプッチである。(引用者・略)
さらにその西岸をたしかめたのはパスコ・ヌニエズ・バルボアであった。(引用者・略)そこはダリエン湾の西岸、つまりパナマ地峡の東側にあった。バルボアはその植民地から内陸へ探検へ出かけたとき、酋長から南の海の話を聞いた。 》 16-17頁
《 すると南下するにつれて、その海岸に高い文化のあることを発見した。赤道付近ではバルサとよぶ筏船を見かけた。それは帆を張っていた。船には毛織物の衣服を着、装身具をつけた人びとが乗っていた。ルイスはここから引きかえしてピサロにこのことをつげた。そこでピサロがかわって南下することにした。すると海岸には、原始林のなくなったところから、ひろびろとしたトウモロコシやジャガイモ・甘藷の畑がひらけてき、部落や大きな町のあるのを見かけた。つまりそこには高い農耕文化社会があった。
さて、それからピサロのインカ帝国征服のための大虐殺がおこされるのであるが、私の話はここでようやく甘藷にたどりついたわけである。 》18頁
《 タバコ・トウモロコシ・ジャガイモ・パインアップル・バナナなど、欧亜大陸の作物とはおよそ異質のものが多かった。それは征服者たちの好奇の目を見はらせたばかりでなく、ただちに本国にもたらされたのであった。 》18頁
《 アメリカからヨーロッパにもたらされた甘藷が、どういう経路をとって欧亜大陸の各地につたわったか明らかでないが、コロンブスがアメリカを発見してから八〇年ほどのち、シナの明(みん)朝の万暦年間(一五七三~一六一九)の初めごろにはもうシナにつたわっていた。 》19頁
《 マゼランのこの遠征によってフィリッピンはスペインの植民地になる。こうしてその後、スペインからの船は南アメリカの南端をまわってフィリッピンへ来るようになる。 》23頁
《 一五二二年(引用者・略)国の外では地球を舞台にしてスペイン・ポルトガルの植民地開拓の争いがくりひろげられつつあった。そしてそのあおりをくってスペイン人によって甘藷がまずルソンにもたらされたと見られる。
そしてそれからおよそ三、四〇年たったころにルソンから南支へ甘藷がもたらされる。 》24頁
《 ちょうどそのころ、ポルトガル人によってタバコが日本にもたらされている。つまり西欧人によって直接もたらされたのであった。
が、甘藷の方はひとまずシナに伝来されたのである。そしてそれが琉球へつたえられる。 》 24-25頁
暑さきびしき折、読書は進まない・・・。