『甘藷の歴史』三(閑人亭日録)

 宮本常一『日本民衆史7 甘藷の歴史』未來社一九六二年一〇月一〇日第一刷発行を少し読んだ。以下メモ。

《 以上のべてきたように種子島は決して辺陬の地ではなかった。外来文化の刺激をうけてじつに生き生きとしており、またそこから南へは無限といってよいほど広い世界がひらけており、虚心になって文化を迎えいれるのであれば、無数に流入するものがあった。そして甘藷もまたそのひとつであった。 》79頁

《 ただ鹿児島の場合は琉球と直接交渉があり、琉球は南シナと深い交渉を持っていることによって、つぎつぎに新しい品種のはいりくる余地が十分にあった。そして今度は鹿児島をひとつの中継地として、方々へつたわっていく傾向を持つようになるのである。 》84頁

《 宮崎安貞や貝原益軒よりややおくれて、その郷土発展のために献身し、また多くの著書をのこした人に陶山(すやま)存がいる。(引用者・略)この人は対馬へ甘藷をもたらした。 》85頁

《 準翁(陶山存)のこうしたこまやかな注意と指導とは対馬島民の全体によく行きわたって、今日もそのままおこなわれているとともに、甘藷の栽培はそれからさかんになっていった。 》99頁

 昨日、故つりたくにこさんの夫、高橋直行氏からメールが届く。

《 ポンピドゥーでの展示のカタログが送られてきました。290ページ余りある重いもので、30.31ページに、countercultureのエリアの最初に、ガロ特集号の表紙とアクロバットの3ページ目原稿がそれぞれ載っています。贔屓目ですが、とてもかっこいい。
  五輪も、妨害活動も始まりました。彼女の作品が、パリジェンヌ、パリジャンをして、戦慄せしめんことを。 》