『甘藷の歴史』六(閑人亭日録)

 宮本常一『日本民衆史7 甘藷の歴史』未來社一九六二年一〇月一〇日第一刷発行を読了。結び。

《 甘藷はある意味で私生児のようなものであった。政治の外の世界でのびていき、政治からなかばはみだした人びとの食料として、この人びとの生活をささえ、エネルギー源となった。それが、政治にとりあげられるようになったのは戦時中からであった。そのときだけははなやかにもてはやされた。しかし今また忘れられようとしている。
  食料が十分だから忘れてもいいのかもからない。しかし、これをつくり、これを食べる人びとのことは忘れていただきたくないのである。この人たちこそいちばん人の邪魔にならずにしかもよく働いた。
  戦時中はなやかな脚光をあびたときでさえ、補助金や肥料の要求すらもほとんどしなかった。コメのように価格保障の上にあぐらをかくこともない。価格維持のための声をたててみてもほとんど問題にならない。
     甘藷の歴史のなかに私は庶民の運命を見る思いがする。 》213-214頁

 それから六十年余。我が家の前を今夜も焼き芋屋の車が通り、スピーカーで宣伝している。昨年末から私は毎晩、小さな土鍋で焼き芋を焼いていた。火加減、時間そして芋の品種を違えて最高の味を目指した。毎晩試食をしていた。それが原因で入院する羽目になった、と友だちは言う。なんとも否定できない。貧者の芋はスイーツとして場所を得た、と思う。時代は変わった。宮本常一(1981年没)が生きていたらどんな感想をもっただろう。

  熱くなり 暑さ吹き飛ぶ 五輪かな  閑人亭