宮本常一『日本民衆史1 開拓の歴史』未來社一九六三年六月三〇日第一刷発行を少し読んだ。これは『甘藷の歴史』に続く「双書 日本民衆史」全12巻の第二回配本。この二冊を新刊で購入。それから六十年経って読んだ。冒頭。
《 人間の歩いてきた道は遠くはるかであった。そして生きるということのために、ほんの少数の人をのぞいた多くの人たちは多くの労苦をなめてきた。その労苦は言語に絶するものもあったが、人はなおその苦しみにたえて生きつごうとした。所詮は死が待っているにしても、だからといって自ら死をもとめる者は人間全体から見ればなにほどの数にものぼっていないであろう。
むしろ苦難が大きいほど、生きようとする本能は強まったといっていい。日本における開拓の歴史をふりかえってみるとその感をふかくするのである。 》9頁
《 記録を中心にして書かれた歴史では、採取経済時代から農耕経済時代にはいると、すべての農民が農耕にのみたよって生きているような筆致で書いているけれども、本当の民衆の歴史はそういうものではなく、平坦な水田単作地帯をのぞいては、なお採取経済が長くつづいていたのである。そして農民たちは米は税として領主におさめ、自分たちは畑でつくったものや、自然採取したものに大きくたよってきたのが、明治・大正までの姿であるといっていい。 》19-20頁
《 ところで、日本の農耕の歴史は稲作を中心にして展開してくるのはいうまでもないことであるが、それでは農耕の起原は水田耕作にあったかというに、これにはかなりの疑問がある。水田耕作以前に畑作があったのではないかと推定される。 》22頁
《 台地・山麓・山間の居住者が水田作にそれほどたよらなかったことは、食物の煮蒸の仕方にもうかがわれる。 》25頁
《 元来、畑作物は貢租の対象になることがすくなかったから、その様子を伝える記録はきわめてすくないのだが、とにかく農耕のなかで畑作のしめる位置はかなり高いものがあった。それもそのはずで、明治初年までは畑の面積の方が水田面積よりもひろかった。そして畑があることによって民衆は日常の生活をうちたてることができたといえる。 》29頁
《 人の目はおもしろいもので、ただぼんやり見ている場合にはいろいろのものを見すごしてしまう。事実はそこに存在していても存在しないと同様である。そして人はそういうものは存在しないと思いこんでしまうのだが、事物を見る目と見方が定って注意ぶかく見ていくと、また新しいいろいろのものが見出されてくる。 》53頁
《 土器はあるいはすべての人がつくったものかもわからないが、私はこれを専門につくる人が早くからいたのではないかと思っている。そうでないと類型的なものはできにくいし、また上手下手の差が一つの遺跡にあってもかなりつよく出るであろうと考える。つまり土器のようなものも、技術を持った者の移動や交易によって、一定の地域にひろがっていくことが多かったのではなかろうか。 》59頁