『開拓の歴史』二(閑人亭日録)

 宮本常一『日本民衆史1 開拓の歴史』未來社一九六三年六月三〇日第一刷発行を少し読んだ。

《 つまり、弥生式時代に水田耕作のおこなわれたところは低湿地で、しかもそこがしばしば洪水におそわれるような土地で、人が居住するには多くの危険のともなうようなところがすくなくなかったのである。したがって稲作は食料を得る手段としては当時もっともすぐれた方法であっただろうが、同時に生命をおびやかすような危険もたえずつきまとっていたのである。 》63頁

《 これは些細な一つの事実であるが、戦争もおこなわず、他人の物をうばうことなく、また交易などによって利をしめることがなくても、原始産業の社会では食料を余分に貯える力のある者はそれだけで周囲の者をしのぎ、また統率者になっていく力を持っているのである。今日までの多くの歴史に関する著書によると、原始社会にあっても、闘争がたえずくりかえされ、また武力的な統一によってクニが形成せられてきたことをといているが、私はそれのみで国家が統一されていったとは思わない。むしろ戦争によらずして社会の拡大が見られていった場合も多いかと思う。つまり水田耕作技術を持つ者が食料を確保することによって、食料不安の人びとをまず吸収していったのである。水田耕作の発展にはそうした力がつよかった。 》80頁

《 稲作を中心にした祭祀政治の古代国家が成立していくころから、日本には大陸の影響がつよくおよんでくる。これはむしろ稲作技術を持った民衆が大陸から多数渡来してきたことから、ふるさととしての大陸との間に交渉が多くなったと見られるのである。そして日本を真に統一ある国家形態にしあげていったのは大化の改新であった。 》84頁

 午後、さて読書という時に電話あり。ドライヴに誘われる。夕方帰宅。夜の読書は進まず。