宮本常一『日本民衆史1 開拓の歴史』未來社一九六三年六月三〇日第一刷発行を少し読んだ。
《 つまり、関東南部に水田の増大していったのは奈良時代以降と見られるのであり、条里田のすくないこともそれに起因していよう。 》96頁
《 このように見てくると、一〇世紀以降に開拓をおしすすめていく余地を持っていたのは、台地・山麓・山間地帯と、国の両端ということになってくる。 》99頁
《 元来、農耕は女によっておこされたものといわれる。したがって、原始社会における農耕の主体は女であり、農耕民によって成立した日本古代国家が女の権力をつよくしたことはいうまでもない。しかし、統一国家においては武力を必要とし、武力は狩猟時代以来男の世界のものであった。こうして男の権力が伸びてくるのであるが、奈良・京都を中心とした古代国家においてはなお母系的な色彩がつよく、政治組織の下部構造をなす農村社会はとくに母系結合がつよく見られた。 》114-115頁
《 以上、古代から中世末(平安─室町)へかけての開拓は、ほとんど政府の圏外においておこなわれたものであって、どこまでも私領的な性質を持っていた。そして、開発主と開発に協力した人びとの間は多く主従関係を持っていて、開発の後は開発主に従属してその耕作にあたったのである。こうした耕作者を平安時代の終りごろまでは下作人とrよんでいたが、名田が盛んになるにつれて名子の名をもってよばれた。 》119-120頁
《 こうした一つの開発の単位が名(みょう)であり、名とばれるのは名主によって統一されたものが普通である。 》120頁
《 したがって古代から中世への開拓にも二つの型のあったことがわかる。そして垣内(かいと)の方は、古代からの文献に見える村とよばれるものの性格とほぼ同じものである。
こうした村または垣内の住民たちは、できるだけ戦争をさけようとしていた。つまり古代以来の農民の血を持っているものであって、武士的なものとは性格がちがっていた。(引用者・略)そして中世末にはそういう村の方が武士的な村よりもはるかに多くなっていたと思われる。つまり、戦争する者と生産にしたがう者との間には、かなりの差を生じていたもののようである。 》121頁
《 それはそれとしても、一般民衆のくらしはじつに貧しかった。それは乞食の描かれている場面の多いことで肯定せられる。(引用者注「一遍聖絵」)》123-124頁
《 いわば日本の開拓の歴史は脱税の歴史の一面であった。 》126頁
《 その起源を異にすることによって、その構造を異にしていた村落をほぼ一定の様式と制度をもって統一し、新しい支配者の統治を容易ならしめる基をつくったのは豊臣秀吉の検地事業であったといっていい。検地というのは耕地の一枚一枚の広さと、その生産力と耕作者をしらべあげることである。 》127頁
午前11時35.2℃。もう猛暑日。午前十時、近所のスーパーへ飲料品を自転車で買いに行ったが、既に暑~。この重い荷物を持って歩いたら行倒れになるところだった。