宮本常一『日本民衆史1 開拓の歴史』未來社一九六三年六月三〇日第一刷発行を少し読んだ。
《 中世末までの合戦を、歴史年表によって見ていくと、大きな合戦は農閑期に多いようだし、小さい合戦は秋の刈入れ前が多いようである。農民が丹精をこらしてつくったものを、その刈入れ直前に農耕地を占領すればそれによって食料を確保することもできる。これは少々の犠牲はともなうにしても一番安易な食料確保の方法である。つまり小さい合戦は食料確保のためにおこなわれたものがすくなくないと見られるのである。
これにたいして大きい戦争の倍には、相手の勢力を倒してしまわなければ自分が滅亡の道をたどらねばんらないこともあるので、多くの兵士を動員して勝敗を決しなければならぬ。この場合には、農民が兵士として狩り出しやすい農閑期がよいわけである。 》137頁
《 このように幕府や藩が開拓を奨励し力をそそいだのに対して、町人・百姓らがこれをうけてたち、大規模な開墾をすすめていったのはなぜであろうか。
その一つは、米が国内商品として重要な意味を持ってくるようになったからである。米は税の対象となったばかりでなく、商品として市場に流通した。そして、それは大規模経営ならば市場を遠くはなれていても採算のとれる企業であった。だから地方在住の豪農ばかりでなく、戦にやぶれて武士としての志を失った者や、覇気にみちた人たちは、新しい土地をもとめてそこに水田経営をこころみたのである。 》143頁
《 こうして国内における食料の生産は漸次増加し、近世初期には一八〇〇万ほどの人口であったと推定されるものが、幕末には三〇〇〇万にのぼる人口をやしなう食料を生産するにいたった。とにかく日本の全人口をやしなう食料だけは自給したのである。これはたいへんな努力であったといわざるを得ない。が、そうしなければすまない事情が一方にあった。
それは寛永一六年(一六三九年)以来の鎖国である。(引用者・略)こうした少数の例外をのぞいて、食料の自給のできたということによって鎖国を二二〇年もつづけることができたのである。 》145頁
《 川または池から長い用水路をつくって、水田をひらく方法は条里田にみられたところであるが、平安以後中世末までの墾田には、この技術の利用せられるような大規模な開墾はすくなく、近世にはいって復活してくると見られるが、私のいってみたかったことは地下湧水や谷川の多い山間・山麓地帯では誰でも容易に小規模開墾ができるということであった。日本における小農成立の一つの重要な契機はこうしたところにあったと思われる。 》163頁
最高気温34.9℃。それにしても蒸し暑い。参った。