宮本常一『日本民衆史1 開拓の歴史』未來社一九六三年六月三〇日第一刷発行を読了。以下メモ。
《 こうして山の中で生活をたてる者が焼畑をおこなったほかに、なお焼畑をいとなむ者は多かった。それは水田や定畑をつくっているだけでは食料の不足する人びとであった。対馬が食料不足になやんでいたことはさきにも書いたが、この島ではその食料不足をおぎなうために焼畑づくりが盛んにおこなわれていた。(引用者・略)しかし島でサツマイモがつくられるようになってから、焼畑耕作はずっとへってきていたのである。 》182頁
《 そうしたところばかりでなく河原をひらく者もすくなくなかった。河原は貧しい者によってずいぶんひらかれた。まともな百姓と目されない、さらにそれよりも身分の低い者が河原に住む風習は昔からあった。これを河原者といった。 》202頁
《 昭和一〇年ごろまで関西地方の大きな川の橋の下には、まだ粗末な小屋掛けをいくつも見かけたものである。 》202頁
《 私の郷里の山口県大島などは大正時代までは財産をなくして夜逃げした者はきわめて多かった。一〇〇戸ほどの部落で五〇年間に二〇戸も見られた。島全体一万戸のうち、明治初期の不況に夜逃げしたのは一割の一〇〇〇戸はあったのではなかろうか。 》205頁
《 それにしても日本という国は人の住めるところならどんなところへでも田畑をひらいて人が住んでいる。そして奥地へ行くほど貧しいのが通例である。そうしたところほど追いつめられて開拓せざるを得なかった人が住んでいる。 》206頁
《 最初の開拓者たちが多くの労苦を重ねつつ、ついに資金が枯渇してその農地を手ばなし、退転流離の道をたどっていった例はあまりに多い。そしてそれは内地の明治初期の開拓ばかりでなく、北海道にも同様な現象が見られた。 》224頁
《 明治二二年、大水害にあうて、滝川の西に入植した十津川村の四〇〇戸のごときは、政府の保護が比較的厚かったにもかかわらず、終戦直後のころ、最初割り当てられた農地にとどまるものはわずかに一〇戸にすぎない有様となっていた。その大半──およそ六割は土地をはなれ流転しつつ次第に窮乏をきわめ、四割ほどは市街地に移って農をすてたという。
にもかかわわらず、そこに一応土地はひらかれ人は住み、やがて都市も発達していく。多くの場合あとから来た資本を持つ者が土地を買い集め、経営を合理化して成功への端緒をつくったものである。 》225頁
《 明治にはいっての開拓には国家権力を最高のものとし、国家発展を名として民衆に大きな犠牲を強いた。これにたえ得ないものは滅亡するよりほかに道がなかった。 》226頁
《 いずれにせよ、明治以来の国内開拓はその大半が政策からはみだして十分政府が保障し得ない人びとを便宜的に帰農せしめ、政策の破綻を救おうとしたところに問題があった。だから世がややおちついてくると、これらの人びとのことは忘れられていったのである。しかもいつも結果だけが論ぜられた。土地は開け、作物はみのったという。しかし、そこに入植した者がなにほどもそこにのこらず、別の人が新たにはいって成功をうちたてているのが大半である。
こうして歴史がつくられていく。 》228頁
猛暑日。午後1時33.0℃。しばし雷雨。久しぶりのお湿り。午後2時28.1℃。