「場所論」後半を読んだ。
《 西田が逢着した困難は、一体どのような点にあったのか。(引用者・略)真に実在するのは「意識」なのである。しかし、西田はそれだけでは満足しないのだ。真に実在するのは、「主客未分」にして「主客合一」の「純粋経験」である、とするのだ。内在的な意識と外在的な物質の差異が消失してしまう地点である。これを両立させることは、通常の思考では不可能である。 》107頁
《 つまり、意識の内在的な起源の探求が、そのまま物質の外在的な起源の探求ともならなければならなかった。 》107頁
《 「直観」「反省」「自覚」──いずれも「意識」の側から捉えられた述語である。そういった意味で、西田は、徹頭徹尾、内在的な哲学を志向している。しかし、その内在の極に、超越への回路がひらかれるのだ。西田にとって、意識は、直観と反省という二つの極に分裂したものであり、その分裂した二つの極をつなぎ合わせるのが自覚という作用、「自覚」という働きであった。 》108-109頁
《 西田は、「反省」と「直観」の関係、「私」と「非人称の場」の関係を、有限と無限の関係、内在的な有限の極にひらかれる超越的な無限として思考していく。無限とは、有限のなかに、その「極限」として出現する。有限のなかに出現する無限という「極限」は、具体的に表現され、抽象的に思考される。内在が超越へと転換する「極限」を具体的に表現したものこそが 文学的な「無限」(象徴)であり、抽象的に思考したものこそが数学的な「無限」(集合)であった。
西田のいう「自覚に於ける直観と反省」とは、文学的な象徴論を数学的な集合論から考え、数学的な集合論を文学的な象徴論から考えていくことに他ならなかった。その焦点は、有限の場に立って、文学的な象徴と数学的な集合、すなわち具体的な無限と抽象的な無限を思考していくことに絞られる。 》109-110頁
《 だがしかし、それでもまだ、西田幾多郎の象徴主義の哲学は完結しないのだ。(引用者・略)西田もまた、あらゆる「象徴」を発生させるとともにあらゆる「象徴」を消滅させる「無の場所」を主題とした論考、「場所」を書き上げなければならなかった。 》114-115頁
《 「無」の上に生まれて来る「象徴」とは、その差異によって激しくぶつかり合うが、一つの場所へと集まってくる。そのとき、「衝突」も「浸透」に変わる。「象徴」とは、それぞれ、自ら光を発しながら、しかも他の光をも反射させる宝石、透明な光の珠のようなものなのだ。 》118頁
《 光り輝く宝石、光り輝く透明な珠の連なりを想像してみればよい。光り輝く宝石が連ねられたとき、現実には決して存在せず、ただ潜在的にしか存在しなかった光の線が、それらを貫いて走るであろう。 》119頁
《 鏡に鏡が重なり合い無限に無限が重なり合い、イメージにイメージが重なり合う。音は音に重なり合い、一つの音のなかに無限の音の可能性が孕まれ、無限の音の可能性は一つの音の響き、その質として現実化される。色彩は色彩に重なり合い、一つの色彩のなかに無限の色彩の可能性が孕まれ、無限の色彩の可能性は一つの色彩の色、その質として現実化される。 》 129頁
《 闇の過剰としての光、光の過剰としての闇。すなわち、「光り輝く暗黒」。 》131頁
上の引用、118頁、119頁、129頁、131頁に、そして引用はしないが、ステファヌ・マラルメの詩『賽の一振り』の紹介に、北一明の、海の岩礁を連想させる焼きもの『耀変花生』1977年作を想起。引用の「無限」を「夢幻」に置き替えると、一際感慨深い。
夏祭り中日。昼に雨。涼しくなる。人出はやはり多い。すごく賑やか。山車のお囃子は気合と元気が弾け飛んでいる。誠に楽しいお祭りだ。