『アートの力』再読・四(閑人亭日録)

 マルクス・ガブリエル『アートの力──美的実在論』堀之内出版2023年4月28日 第一刷発行を少し再読。
 「アートと〈権〉力」を読んだ。

《 われわれの経験が作品の自己形成に参加するそうしたやり方のことを、一般に美的経験と呼ぶ。美的経験の問題は、私たちをそっくり作品に吸い込んでしまうことだ。 》132頁

《 私たちは誰でも次のような経験がある。つまり、どういう形であれアート作品を前にしていると知りながら、その作品を理解できない、という経験だ。(引用者・略)私たちが作品に引き込まれるかどうかは、私たちではなく、作品自体に帰する権力である。作品に対してどれほど備えをしようと、それだけでこの権力をもつことはできない。(引用者・略)
  というより、美的経験は突然生じるか、生じないかなのだ。生じるとしても、それは作品のうちで生じる運動である。言い方を変えれば、そこに鑑賞者はいないのだ。 》133-134頁

《 人間の尊厳は、私たちが根本的に同等であるという事実に由来する。(引用者・略)ところが、美的経験のなかでは、私たちは身動きが取れなくなる。私たちはそこで、ラディカルな自律性を備えたさまざまなプロセスと力に服しており、そのプロセスと力の成り立ちについては何の口出しもできない。解釈とは、私たち自らが行う自由な行為でもなければ、自律した行為でもないのだ!アート作品は至高に自由であり、強力である。その力は異質な力であって、いかなる意味でも人間主体の統制下にはない。 》139-140頁

《 アートは無道徳的であり、無法的であり、無政治的である。したがって、アートの力は絶対権力なのだ。 》145-146頁

《 アート作品は自分を現実化するために、芸術家の精神を虜にする。この働きがなければ、作品が存在しはじめることはないだろう。何か作品の外にあるものが、作品の生命を始動させるということはない。アート作品がどんな理由もなく生きはじめるというのは、その意味においてである。 》149頁

《 アート作品の無論理性は、作品のラディカルな自律性がもたらす特徴のひとつである。アート作品は個体であって、その存在はどんな普遍的構造とも結びつくところがない。 》155頁

《 アートそれ自体は、鑑賞者の視線のうちに存在するのではない。私たちがアート作品を生み出すのではない。アート作品こそが、自分を存在させるために、私たちを参加者として創造するのだ。アート作品は前触れなくやってくる。 》155-156頁

《 アート作品は最高度に強力な存在物である。作品に近づくために大切なことは、アートの正しい存在論を準備しておくこと、アートそれ自体が何であるかを知っておくことだ。つまり、いかなる実体的な要因にも従わず、ラディカルに自律する、そのような個体によって住み着かれた意味の場が存在すると知ることなのだ。 》156頁

《 アートが美しいとは、特定のアート作品が自分の構成(コンポジション)で定めた基準において高い水準にある、といことだ。その基準を外から評価することはできない。作品はそれぞれ、おのずと判断される。 》158頁

 この論述に対して言葉を挟むことはできない。安易に雑感を書くと、手痛いしっぺ返しを喰らうだろう。そうですか、というしかない。ただ、最後の引用「作品はそれぞれ、おのずと判断される。」に安堵する。

 午後、日が射しているのに土砂降りの雨。今風にいえばゲリラ雨だな。午後四時過ぎ、東の空に虹が出る。はかなく消える。

 ネットの遭遇。

《 しかし私は絵をやめることができなかったし、今は若い頃に比べてはるかに絵との向き合い方も、ものの見かたもはっきりしている。

  私にとって大切なもの、それは「内面」とはいえない、あらゆる説明の「外」にある「過剰さ」。

  観念や夢想の世界ではなく「外」に「在る」ものと強烈に出会える身体だ。 》
 福山知佐子「学生時代の大きな絵、絶望と抑圧」
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