種村季弘『徘徊老人の夏』ちくま文庫二〇〇八年七月十日 第一刷発行を少し読んだ。題名からして昨日読了した中村真一郎『人生を愛するには』とは違う。中村真一郎が知識人や碩学の人といったエリートたちとの交友、交遊関係に生活の大半があったのに対し、種村季弘氏は、最初の一篇が「浮世風呂世間話」と、知識人とは無縁の庶民の生態を描いているように、その庶民の立場からの視線に敬服。
《 相手は何もおまえじゃなくて、おれでもよかったわけだ。愛なき性行為は機会平等でなくてはならぬ。どうしておまえばかりがいい思いをしたんだ。神様は不公平じゃないか。
もっともこれは私だけの思い入れで、田中さんはそんな欲情とは無縁の人だったかもしれない。 》10頁
「店番日記」。横浜のNICAF(国際コンテンポラリーアートフェア)の店番を頼まれた話。
《 しかしお家の事情のためか、概して旧・現社会主義圏からの出品はすくない。つまり東・中欧、ロシアのほか、中国の作家の出品はさほど見られない。会場の性格が国際美術展ではなくて、国際美術市場展であることからしてやむをえない偏向なのだろう。 》29頁
「パスパルトゥー横浜潜入記」。ジュール・ヴェルヌの小説『八十二日間世界一周』に出て来る富豪の従僕。
《 横浜正金銀行の開行は明治十三年。フランなりドルなりの通用力が制度化されるそれ以前に、たとえ巨万のフランを持って上陸しても、横浜は、延いては開国直後の日本全土は、目に見たところどれだけにぎやかに繁栄していようと蜃気楼のように実態のない、接触を禁じられて不毛な、帝国主義的貨幣経済にとっての砂漠にほかならなかったのである。(引用者・略)
パスパルトゥーの見物した横浜は、一見、貨幣経済に汚染される以前のアルカディアのように見える。(引用者・略)
あべこべにパスパルトゥーが遭遇したのは、じつは貨幣経済死滅の明日の光景なのではあるまいかと、ひそかに疑っているのである。 》38-39頁
「画廊」は二頁に満たない短文。
《 その前の週は「空想ガレリア」という中村宏の個展会場を訪ねた。初めての画廊。(引用者・略)
火を吐くような息で六階にたどり着くと、なつかしや、六〇年代女学生シリーズの数点があり、思い切って銅版画を一点買った。三十年前に買いたかった作品を、いまようやく手に入れたという気がした。 》91頁
空想ガレリアには何度か訪問した。中村宏の個展ではおそらく同じ銅版画を買ったようだ。
http://web.thn.jp/kbi/nakam.htm
ウェブサイトにはリトグラフと記してあるが、銅版画の間違い。
午後8時24.5℃。窓を開放。熱いコーヒーを淹れる。旨い。