種村季弘『徘徊老人の夏』ちくま文庫二〇〇八年七月十日 第一刷発行を読み進める。
「プリクラ」。
《 下町にはむかし駄菓子屋というお店があって、そこでは駄菓子が平面に並んでいるだけでなく、鍾乳洞のように狭い空間にメクリが上からぶら下がっていたり、横からもメンコだの花火だのが突き出していたものだ。これに似た空間デザインは、なるほど手近にはキオスクしかない。(引用者・略)
では、駄菓子屋、仏壇の記憶を持ちようのない、今の人が年をとったらどうなるか。 》96-97頁
ドン.キホーテ。
「私のチャイナ・タウン」。
《 もう一度復唱する。チィイナ・タウンは実体ではなく装置であって、いたるところに随時に存在し得る。それというのも、この精巧な装置は無でこしらえてあるからで、また無はいたるところに偏在しているからだ。チャイナ・タウンを探しに行く必要はない。何故ならそれはここにあるからであり、ここにないとすればどこにもあるわけがないからだ。それをここに浮び上らせるためには何もしないのがよい。すなわち、ただ単にのんびりと生きているのが一番いい。漫漫歩、漫漫歩である。 》107-108頁
「ガラクタ建築」。
《 オンボロ福岡城とならんで当時評判になったのが、沼津の「乞食城」。これも古材とトタンで出来ていた。その沼津の乞食城も、とうにない。 》125頁
バスから見た記憶がある。後年探したが、見つからなかった。
後半は、なんだかんだと記憶と連想を重ね、読了。神谷町にお住まいの時の初訪問から三島駅南口ロータリーでばったり出会った時まで、四半世紀ほどの交際が走馬灯のように光彩鮮やかに浮かぶ。
軽妙洒脱という古い言い回しが浮かぶ。余技のようで、余人にはとうてい書けない。