『現代の美術 art now1先駆者たち』四(閑人亭日録)

 『現代の美術 art now1先駆者たち』、中原佑介「3 夢と幻想」。

《 しかしながら非現実的あるいは幻想的なイメージは例外的なもの、特殊なものとして美術史の片隅に追いやられてきたのだった。そして今世紀になって、初めて夢や幻想の織りなす世界が美術の主流のひとつとして大きくクローズ・アップされるに至ったのである。 》58頁

《 世紀末にヨーロッパを風靡したアール・ヌーボ-が、生活環境の人工化──つまり反自然化の深まりにともなって失われてゆく自然を、渦巻く植物模様という幻想的なフォルムによって都市生活の中へもちこんだように、幻想絵画も人間にとってなにかある本質的なものが遠ざかってゆくという喪失感に根ざしていたのである。 》58頁

《 この喪失感とは、人間と自然との深いつながりが失われつつあるという危機感であり、人間がその拠って立つ基盤を失って根なし草のようにただよいだしたという不安感であった。魂はいわば故郷を失い、夢や幻想はその失われた魂の故郷を探し求める欲求として姿をあらわしたのである。 》58頁

《 こうした「夢と幻想」の画家たちが写実主義に背を向けたのは、写実されるべき現実をもはや信じなかったからである。自然は永遠のものかもしれない。しかし、人間と自然との関係は不変のものではない。人間にとって不変のものを探し求めようとした時、「夢と幻想」のもつ重い意味が自覚されたのである。。 》58頁

《 ルソーやシャガールの作品が、人間と大地の根源的なつながりが希薄になってしまったという喪失感に根ざしながら、架空の熱帯地方や追憶の貧しい田舎町を描くことによって、いわば魂の故郷としての風景をうみだしたものとすれば、それを近代的な都市のただ中に見出そうとしたのが、イタリアの形而上絵画の画家といわれるキリコであった。 》64頁

《 同じ頃イタリアにうまれた未來派が、都市と群衆のダイナミズムを、自動車や機関車のめくるめくスピード感を賑やかに描いていたのとまったくうらはらに、キリコは都市の中にひそむ変らざるもの、不滅のものに関心を注いだのである。 》64頁

《 そして、キリコのこうした日常世界の真 昼の幻想ともいうべき絵画は、タンギーマグリットデルヴォー、ダリらに強い影響を及ぼしたのである。
  ここに列挙した画家は、いずれも超現実主義の運動に参加した画家たちである。もっとも、超現実主義はキリコの形而上絵画を引継いで生れたというより、超現実主義は単なるる絵画の運動ではなかった。系譜といえば、それは第一次大戦のさなかに誕生したダダの精神を引き継ぐものだが、超現実主義の運動が目指したのは、究極的には人間の完全な解放という「生」の問題であった。 》64頁

《 その自発的なもの内発的なものを、より自覚的にとりだすことというのが超現実主義の出発であった。自発的なものあるいは内発的なものは、人間の無意識の世界、あるいは意識とか理性によって抑圧されている意識下の世界の直接的なあらわれにほかならない。 》64頁

《 夢や幻想、あるいは狂気とか想像力がクローズ・アップされたのは、それらがいずれも人間の無意識あるいは意識下の世界と結びついているからである。そして、フロイト深層心理学が超現実主義の運動の理論的根拠を提出した。画家たちはイメージの土壌をこの意識下の世界、夢の世界、幻想の世界に求めたのである。当然それは形式上の問題ではない。絵画にみられる 超現実主義形式といった共通性は存在しないのである。 》64頁

《 超現実主義が原始芸術に深い関心を寄せたのも、ゲテモノ趣味からではなかった。人間の根源を掘り下げることで、未開と文明といった表面的な区分けの無意味さを破産させようとしたからである。 》74頁

《 そこから浮かび上がるのは冷やかなエロティシズムともいうべきものである。裸婦がえがかれていながら、全体を支配しているのは官能のよろこびなどではなく、むしろ禁欲と孤独といったものだからである。(引用者・略)バルテュスワイエスデルヴォーと同一に論じることは、むろんできないが、今世紀の美術にみられるエロティシズムが反人間主義を根底にすえることによってうまれている。

 きょうも33℃超え。読書は急がず、ゆっくりが、老齢を実感している今の読書法。