『現代の美術 art now1先駆者たち』七(閑人亭日録)

 「現代美術への道」、中原佑介「芸術思想の国際化──両大戦間の動向をめぐって」を読んだ。

《 第一次大戦が文化や芸術にもたらしたものはひとことで尽くせないが、そのもっとも際立ったひとつとして、国際主義の自覚ということが挙げられるだろう。国際主義といっても、汎ヨーロッパ主義という性格を脱するものではなかったが、そうではあっても、第一次大戦前と較べて、それはきわめて大きな違いであった。この国際主義のもっとも具体的なあらわれは、詩人や芸術家が国籍を超えて共同ぢ、さまざまな機関誌や雑誌を刊行したことである。そうした雑誌は、国際的連帯の端的なあらわれであり、また表明でもあった。 》117頁

《ここでは、こうした諸活動の国際的つながりということを中心にして、両大戦間の美術を展望してみたいと思う。というのも、第二次大戦は結局、第一次大戦後に生まれたこうした国際主義をずたずたに引き裂き、それをヨーロッパから一掃してしまうことになるからである。そして、多くの芸術家たちはアメリカに難を避けるということになった。この国際主義はアメリカへ渡ったのである。 》117頁

 それからヨーロッパ各都市の多くの芸術家たちの動向がこと細かく綴られる。

《 オランダといえば、1927年からオウト、ペイペル、モホリ=ナギの三人によって編集、出版された『i10』という国際雑誌も無視できない。これはダダ、新造形主義、構成主義を包含するような性格の雑誌であった。(引用者・略)そればかりではない。ヴァルター・ベンヤミンエルンスト・ブロッホ、エレンブルグ、ギーディオン、マキシム・ゴーリキーらも登場し、その国籍を超えた正確によって際立っているのである。精神の自立が、ジャンルを超え、いわば知的冒険として展開されたのである。ダダから新造形主義まで、そこには極度にはりつめた精神の自立への願望が横たわっていた。芸術家は作品をつくる職人ではなく、そういう願望につき動かされた人間であったといえる。それが、ベルリン、アムステルダム、モスクワなどを結びつけたのである。 》124-125頁

《 第一次大戦後から1920年代にかけては、一種のシュトルム・ウント・ドランク(引用者・注:「嵐と衝動」の意味)の時期であったといえよう。(引用者・略)しかし、30年代になると、そういう煮立つような雰囲気は次第に姿を消していったように思われる。 》127頁

《 第二次大戦はヨーロッパの芸術家を四散させたが、同時にこうした画家たちの死没は、ひとつの時期が終わったことの象徴ともいえた。第一次大戦前を幼年期とすれば、両大戦間は今世紀の青春期であったかもしれない。現在からみると、ある向こうみずの活気と熱気を感じさせるのも、多分そのせいに違いないように思われるのである。 》127頁

 『現代の美術 art now 1先駆者たち』(高階秀爾 中原佑介 編)講談社1971年11月20日第1刷発行、読了。
 ”ある向こうみずの活気と熱気”。1970年前後の全共闘運動を連想。高階秀爾1932年生まれ。中原佑介1931年生まれ。文章に勢いを感じる。
 朝、歯医者へ。定期検診。「きれいに磨けていますね」と女医さん。「あなたにほめられたくて」とは言えなかった。歯、眼、耳そして血糖値で医者通い。残暑にへこむ。気分は(実際も)老齢者。気分転換にトイレをお掃除。草木に水遣り。町内会のリサイクルゴミの集積所へ段ボール、新聞紙を台車に載せておっちら運ぶ。燃えないゴミを集積所へ運ぶ。やれやれ。どっと汗~。地元丹那牛乳を一杯。うまい。もう一杯。残暑なんてどうってことないや。