『現代の美術 art now3 情念の人間』(閑人亭日録)

 『現代の美術 art now3 情念の人間』講談社1971年6月25日第1刷発行(第3回配本)を読んだ。編著・野村太郎。
 「はじめに」
《 この巻には、20世紀の美術が方向づけた美術家のいくつかの主要な関心のなかから、とくに「表現(エクスプレション)」にかかわりのある諸作品を集めました。ここにいう「表現」とは、自己および世界にたいする美術家の内向的な視覚にもとづいて、人間の共同社会におけるあり方を第一義的に問う美術の方向をいいます。 》6頁

《 ここでは、人間のあり方を問う倫理的な問いと、美術とは何かという美的な問いとが相互に分離できない一つのものとして密着しています。いや、倫理的な問いが、美的な問いを凌駕しているといっていいかもしれません。 》6頁

《 美術は、特殊な領域における特殊な収穫としてではなく、普遍に通ずる生きるあかしとして、現実に参与することが切実に志向されています。それは、従来の美学の殻を打ち破る人間の情念の沸騰と見ることができると思います。 》6頁

《 しかし、この巻でわれわれが見る作品は、別に時空を超越してバランスのとれた、われわれが誤って「芸術」と観念づけているかもしれないような美術作品それ自体などというものではありません。そうではなくて、われわれと同じ現実に直面しつつ、人間の今日的なあり方を問う美術作品です。 》6頁

 「1 激情の人間」
《 1951年から54年にかけて、フランスの批評家タピエが組織した「アンフォルメル」、アメリカの批評家ローゼンバーグが命名した「アクション・ペインティング」、およびフランスの批評家エスティエンヌが唱えた「タシスム」は、それぞれ、いくぶんニュアンスの違いはあるにしても、第二次大戦後の絵画に、今世紀前半の絵画とは明らかに性格の異なる「別の芸術」を見い出そうとする、最初の普遍的な試みでした。
  この「別の芸術」の特徴は、たとえば絵画とは何かという質問に、従来ならそれは絵画的に表現された作品のことだと考えるのがごく当たり前だったのを、いや、そうではない、絵画とは表現行為そのものだと答えなおした点にあるいえるでしょう。いいかえると、すでに描かれたものが絵ではなく、描くこと自体が絵だということです。(引用者・略)
 したがって画面が非定形(アンフォルメル)になり、単純な色斑(タッシュ)(タシスムの語源)の痕跡にまで避けられないことでしょう。その画面にみなぎる激情的な生命の燃焼からして、「抽象表現主義」の呼び名も生まれました。(引用者・略)現時点に生命の燃焼をねがう画家たちは、人間像を、はたしてどのように取り扱っているのでしょうか? 》8頁

 「2 対極の人間」
《 この章のさまざまな作品に、もし広い視野で見て共通点があるとしたら、それは、それぞれの表現が、形象を現象界からひき離し、形象を現実とは対極の世界に見出そうとする点だと思います。現実と非現実の世界には、時としてはるか遠くのものをすぐそばに感ずるような、目に見えない道が通うことがあります。それが想像力ち呼ばれるもおではないでしょうか。この章の作品が表現する世界は、われわれのはるか彼方にあり、それ故われわれのもっとも深い情念のヒダにひそみ得るのかもしれません。 》36頁

 「3 変容の人間」
 昨日の感想と同じく、引用する気力が失せる。制作年が1966年、1968年、1969年、1970年と、本の発行年の数年前の新作が数多く収録されている。現在の美術作品だ。この半世紀余を経た時点から見れば、何とも言えない気分になる。その作品が私にとって魅力があるかどうかが、大事。昨日の『幻想と人間』と同じく、惹かれる作品には殆ど出合わなかった。
 巻末の「執筆者紹介」、訳書の一つに『対極──デーモンの幻想』(A・クービン著 法政大学出版局)。本を確かめる。帯文には。
《 《夢の国》の奇怪な日常と凄惨な地獄篇、そして没落!! ドイツ表現主義の画家A.クービンが描く終末論のロマン。カフカ文学の原型とされる幻想小説。貴重な自作挿絵52点を併載。本邦初訳/版権取得 》
 再読したくなった、かな。

 午前二時過ぎ、眼が覚め、ベランダに出て夜空を仰ぐ。雲間に煌々と光る満月。
 午後四時、雷鳴と豪雨。ほどなく止む。