『現代の美術 art now4ポップ人間登場』講談社1971年5月25日第1刷発行(第2回配本)を読んだ。執筆者・東野芳明。
「1 あっけらかんとした弔鐘──アメリカ」
《 第二次大戦後の現代美術が、ヨーロッパ中心主義から、アメリカにその中心地を移し、とりわけニューヨークを背景にした美術が、1950年代から急速に世界の美術界に大きな影響力をもちはじめたことはよく知られている。それは、戦前まで、アメリカの美術家たちが旧大陸の伝統や文化にもっていた自らのコンプレックスを逆手にとって発言しはじめたときにはじまったといってもよい。 》8頁
《 そのひとり、ジャクスン・ポロックは、(引用者・略)めまぐるしくヨーロッパの波を受けた後、48年頃、床に大きなカンヴァスをひろげ、絵具をドリップ(たらし)させながら、身体ごとアクションをもって作品を描きはじめた。そこには、過去という文脈とのつながりからはみ出してしまう、生ま生ましい「現実」の痕跡がはじけ合いながら集積していった。 》8頁
《 現実を抽象したミクロコスモスの絵画から、現実と均質の、現実の一部としての絵画へ。 》8頁
《 もうひとりの先駆者、オランダから亡命してきたヴィレム・デ・クーニングは、「油絵具は肉を描くために発明された」といったが、1952年にはじまった「女」のシリーズでは、愛憎の 激突する女の肉体を、ひき裂きながら、抱きしめるかのように、剛直で不安な筆触が焼きついている。これを見ていると、さまざまな方向に分裂し、ひきさかれたままで、それ故にこそ、ヨーロッパの見捨ててきた、激動する現実をそのままで凝視し得るアメリカの顔が、見えてくるような気がする。
抽象表現主義のもっていた内的な分裂の緊張にとって変って、マス・メディアのぺらぺらなイメージを積極的にとりあげたのが、1960年代に開花したポップ・アートである。 》8頁
《 二人がもっていた、なお内的な世界の翳りをアイロンでひきのばし、消し去ってしまえば事足りたのである。ここでは、マス・メディアの虚像に満たされた現実自体がフィクションであり、負数を掛け合わせると正数になるように、フィクションのフィクションを作ることによって、ポップ・アートは、あの明るく陽気に病んだ「アメリカ」を思い切り謳いあげた。その切っても血の出ない、アッケラカンとしてぺらぺらな人間像を、作家たちは、自分たちの内的世界からもぎとり、遮断して描いた。 》9頁
「「皮膚」への凝視──ジャスパー・ジョーンズ」
《 このような皮膚への関心が、ジョーンズが描くアメリカ国旗、標的、数字、アルファベット、地図などの主題と関連していることはいうまでもない。つまり、これらもまたどれも、厚さも奥行きもない(数字の裏側を想像できるだろうか)、純粋に二次元のイメージであって、これまでの絵画が二次元の平面に三次元の、あるいは「内的な」世界を投影したイリュージョンであったことを考えると、二次元のイメージを二次元の面に描いたジョーンズの〈標的〉という作品は、それ自体で本物の標的であると同時に、そこに充電している冷たい筆触の「表現」によって、素晴らしい絵画作品なのである。ここではオブジェ(本物)とイメージ(イリュージョン)とが同一化している。 》10頁
「うすっぺらな「死の舞踏(ダンス・マカブル)」──アンディ・ウォーホール」
《 しかし、ウォーホール場合、「死」ということをしかつめらしく深刻に考えることは禁じられている。(引用者・略)ここでは死は新聞の記事の数行で片づけられ、けっしてあなたの平穏な日常を侵すことはない。それなら、いっそのこと、そこいらのつまらない奴の死よりも、有名スターたちの、うすっぺらな「死の舞踏」の方が、いっそにぎやかでいいというものだ。 》16頁
《 これほど異様な死が日常化されたアメリカで、ウォーホールの画面は、ぺらぺらなコカコーラのラベルのようになってしまった死を飾り立てることで、死に麻痺した観衆の内部そのものを告発している。死が深刻だからといって、深刻に描けばいいってもんじゃないのである。(引用者・略)そして、ヴィデオ・テープのように、繰り返し描かれる同じイメージ。ここに個人の自己表現というし神話がなぶりものにされていることを見るのはたやすいが、それよりも、作者の内部を一切通過しない地点で成り立った作品が、そのままで他人の観衆の内部のすべてにかかわってくるという逆説はすでに甘美ではないだろう。 》16頁
「アメリカ式死体処理法──マリソール・エスコバル」
《 それよりも、「他人と自分がすぐに入れ代わったりする」程度にしか、自分も他人も大して変らないのが、けっして本質的なことを語ってはならない、社交界のパーティの掟なのであり、いや、あなたの生きている体制の一場面なのだ。孤独な密室の中の毒のある思考や言葉を叩きつける「芸術」が、しゃれた話題として欠かせない、装飾品となっている世界で、芸術家たちもまた、憤りを一切かくして、優雅に振舞わなければならない。中途半端はよそう。軽薄な、下らない、しかし、否応のない体制は、いっそ、疑似儀式のように、荘重に飾りたててやろうではないか。それを、死の宣告だとは、けっして奴らは気が付くまい。 》44頁
「2 肉体否定の伝統──日本」57頁
《 そこには、また、外国と日本における、「肉体」の観念の相違が反映しているともいえるだろう。精神のもっとも頑迷な敵であるはずの肉体を軽視し、最初から、精神や意識を中心に思考してきたのがこの国の、少くとも明治以後の病者の文学や 芸術だったとすれば、肉を原罪の観念の根底に据えた西欧の「人体」との距離は依然として大きいのである。 》58頁
この章では、靉謳、河原温、小島信明、横尾忠則、合田佐和子、四谷シモン、野田哲也、岡本信治郎、篠原有司男、三木富雄、高松次郎が紹介されている。
「ポップ・アート前夜──ヨーロッパ」
《 ヨーロッパの戦後芸術は、ジャン・フォートリエ、ジャン・デュビュッフェ、ヴォルスの三人を先駆者とする、いわゆる「アンフォルメル」の抬頭によってはじまったといってよいが、(引用者・略)そこには、既成のフォルムや構成を一切取り払った後に、なお、人間の「肉体」の、粗暴な原イメージといったものがひくひくとうごめいていたことを忘れてはなるまい。 》72頁
《 ニューヨークのそれよりも10年近く早く、ロンドンで、ポップ・アートの動きがあらわれたのは1953年、ICAで、パオロッツィ、写真家ニゲル、ヘンダースン、建築家アリスンとピーターの両スミスソンによる「生活と芸術の並行」展だった。ここでは、写真を主としたマス・メディアが積極的に用いられた。(引用者・略)60年はじめに花開いたニューヨーク・ポップの背景には、50年代のロンドンがあったのである。
一方、パリを中心にした、いわゆる「ヌーヴォー・レアリスム」の動きは、「アンフォルメル」の熱っぽい旋風の後、1960年はじめ頃からはじまる。》72頁
《 これらヨーロッパの反抗児たちの作品には、ニューヨークのポップ・アートに比べると、人間的な情念や、理知的な形而上学がしみ通っているのは否定できない。それは、工業社会化、大衆社会化が伝統と絡み合って緩慢に進行してきたヨーロッパの特色だろうし、ヌーヴォー・レアリスムの美点とも弱点ともなっているのである。 》72頁
《 ニューヨークのポップ・アートより早く、50年代前半にすでにロンドンの一群の作家たちが、大衆文化を通して芸術のあり方を考えはじめていたことを忘れてはならない。 》75頁
「”人間”の崩壊」
《 「現代芸術」の魅力的な点は、それがまだ、歴史の整理棚の中にちんまりとおさまっておらず、何やら無気味な、見なれぬ牙をむき出して、ぴちぴちと生き、あばれ廻っているところである。それは明日には死に絶えてしまうかもしれないが、そんなことをいえば、見物人のぼくらの明日だって、あやしいものだ。ともあれ、自分の生きているのと同じ時代の者たちが、出来合いの過去を否定して、果断に作り出している、生な生ましい「作品」に、ぼくらがどうあがいても、客観的になれるわけがない。いや、それは、ぼくらの内に、気が付かないうちにひそんでいる「現在」を、眼に見える形で抉り出し、拡大してみせつけている、新しい影武者なのである。
たとえば、この画集ひとつにしてもそうだ。10年前であったらば、「今日の人間像」を集大成したはずのこの画集には、まったく異なった作家の作品が掲載されたことだろう。 》109頁
午前七時前地震。静岡県中部。