『現代の美術 art now5つくられた自然』(閑人亭亭日録)

『現代の美術 art now5つくられた自然』1971年8月25日第1刷発行、編著・中原佑介の解説「つくられた自然」を読んだ。

 味戸ケイコさんの絵『寒い日』1981年を鑑賞。初秋の気配を感じたせいだろうか、あるいは『現代の美術 art now』に疲れたせいか。多分そうだろう。この絵を見たくなった。
 http://web.thn.jp/kbi/ajie.htm
 午後、気力回復。
 「デュシャンと白い便器」
《 1917年、ニューヨークのアンデパンダン展(無所属美美術家展)が開催されたとき、マルセル・デュシャンは友人のジョセフ・ステラと語らって、白い小便用の便器を一個出品した。便器は〈泉〉というタイトルがつけられ、その一隅には”R.Mutt 1917”と署名されていた。しかも、それは通常使用される場合と異なり、横倒しにして展示されるようになっていた。(引用者・略)
  さて、〈泉〉を拒否するのではなく、受け入れようとする者は、そこにどういう理由を見出したのか。(引用者・略)
  たとえば、ロダンの〈考える人〉というブロンズのかたまりが、何かを表現しているというのと同じ意味合いで、〈泉〉の白い便器が何かを表現しているとはいえないということである。
  つまり、〈泉〉は芸術の問題を、何かを表現するために作品をつくりだすことから、既に存在する物体を「見る」ということに大転換したのであった。(引用者・略)
  つくるのではなく、すでにつくられた物体を「見る」ということ──レディ・メイド(注:既成品)は「つくられた自然」から芸術を引き出す方法を、最も端的に示したものだった。 》108頁

《 1957年、デュシャンアメリカのヒューストンで行なった「創造芸術」と題する講演の中で、芸術家と観衆の役割について次のような意味のことを述べたが、それはこのレディ・メイドと「見る人間」の関係を一般化したものだったように私には思われる。芸術家は「媒介的存在」だと彼はいう。芸術家は自分のしていること、あるいは何故そうしているのかがまったく分からない。作品の内的意味は、観衆が「内的浸透力」とでもいうべきものによって、作品と外の世界を関連づけ、そうすることによってはじめて「創造の過程」を完成させる。いいかえれば、作品はそれ自体で意味を持っているのではなく、観衆がそれに意味を見出し、意味を与え、そうすることによってはじめて作品となり得る。そして、芸術家は、この作品と観衆の橋わたし的存在でしかないというのである。 》109頁

 「美術はどう変ったか」
《 つまり、抽象画は根本的には絵具というものに注目した「レディ・メイド」の作品である。それは具象にかわって抽象を選びとったのでなく、絵具を表現の素材としながら現実の再現や模写をする絵画というものを否定したのである。したがって、一枚の抽象絵画は、デュシャンの〈泉〉がそうであるように、本質的に多義的な意味を持っている。 》114頁

 「既成品から既成のイメージへ」
《 こうして廃品は見られるものとなる。そして、これら「廃品芸術」を現代の美術として受けとるわれわれは、歴史が、あるいは生活環境がどれほどわれわれの感受性を大きく変えてしまっているかに、改めて気づくのである。半世紀にもならない前、ピカピカの新品の便器という既成品すら、芸術家たちによって「不道徳で下品だ」とみなされたのであった。捨てられたものやがらくたは、それ以上に「不道徳で下品」だということになるはずだが、もはやそういう主張は姿を消してしまい、廃品は「廃品芸術」という呼称を獲得するまでに至ったからである。
  さて、これを第一の特徴とするなら、第二の特徴は、戦後の美術は戦前にはほとんど注目されることのなかった、もうひとつの既成品に関心を集中することになったという事実である。そして、この第二の特徴こそ、現代の「つくられた自然」における美術を典型的に物語るものだ。もうひとつの既成品というのは、新聞や雑誌にあらわれた写真や広告、漫画、テレビや映画、ポスターや看板、商品の外箱やレッテル、商標、交通標識、その他都市を彩るさまざまな記号などである。これらは「既成のイメージ」といえよう。いわばレディ・メイドのイメージである。 》116-117頁

 「都市の美術」
《 旅行エイジェンシ-や航空会社は各地の風景を人工のイメージとしてあちこちにばらまく。われわれは、たとえばそういうイメージを手がかりにして旅行のプランをたてるのが普通であろう。自然はこうしてレディ・メイドのイメージとして存在する。つまり、都市の外に自然があるのではなく、こうした媒体によって、われわれは都市の中に自然を抱え込んでいるのである。
  現代の風景画にあらわれる自然の風景とは、そういう内側に抱え込んだ自然の風景である。 》126頁

《 こういう状況を考えてみれば、都市の風景画とはこのハプニングのある部分を一瞥するようなものでしかあり得ない。正確にいうなら、かつての自然の風景画と同じような意味での都市の風景画といったものはもはや存在しないのである。 》127頁

《 「つくられた自然」の美術とは、結局は「都市の美術」ということである。そして、都市の美術はまた都市という環境の中に置かれてその構成要素となり、全体として都市文化を形成することに寄与する。したがって都市の美術とは、都市生活の自己診断といえる。デュシャンの〈泉〉も、ラウシェンバーグの「コンバイン・ペインティング」も、ウォーホールの〈ブリロ洗剤の箱〉も、「光の芸術」も、われわれの生活環境と行動を、もう一度よく確かめてみようという試みのあれこれにほかならない。そのあれこれの手段と形式が、たとえばこの巻でとりあげた諸作品である。 》127頁

 なんとか読了。ふう。この巻の作品もまた、入手したいと思うものは一点もなかった。再び味戸ケイコ『寒い日』1981年を鑑賞。