『現代の美術 art now8 躍動する抽象』続き(閑人亭日録)

 『現代の美術 art now8 躍動する抽象』講談社(第10回配本)1972年2月5日第1刷発行、大岡信・編著、巻末の「生の昂揚としての抽象絵画」を読んだ。

 「過渡期の「芸術」と「美」」
《 ピカソは比較的早い時期から作品に制作の日付を書きこむ習慣をもっていたし、題名の代わりに日付だけをつけてある作品も少なくない。(引用者・略)当然、ひとつひとつの作品は、ある連続的な精神の「過程」の一断面という性質をおびるだろう。それはたえずより高いところへ向かって動く一連の精神の運動の、現在という名の突端にあるが、この突端はいずれ過ぎ去って、「一つの」過去となるほかないものである。すなわち、現在は、つねに激しく意識され、おそらく危機的に充実していながら、しかもつねに、作家の全歴史の中の過渡期にすぎないという性質を鋭くおびるのだ。
  これは、いわゆる現代的な作品に共通の宿命ともいうべきジレンマである。かつてこれほど現在という瞬間の諸様態が重視されたことはなく、しかも、かつてこれほどにも、人の刻々の生命がその過渡性、未完成さにおいてとらえられたこともないだろう。 》106頁

《 ともあれ、現代美術もまた、他の分野においてと同様、過渡期の空気をしたたかに吸い、一点一点の完成を問うよりは、マルローのいう「全集」を描くことにいやおうなしに向いてしまう芸術家たちによって担われてきたのである。 》108頁

 「ロマン主義的な精神と方法」
《 しかし私は今、ロマン主義的精神の持続という観点に立って現代芸術の性格ついて考えてみたい。当然、時代的にいえば2世紀近い過去からの、ある大きな精神傾向の流れを一瞥するということになる。
  さしあたってここで、三つの言葉について考えてみよう。一つは「天才」という言葉、二つは「独創」という言葉、三つは「個性」という言葉である。これらの言葉は、すぐれてロマン主義的な意味合いを帯びて用いられる用語の、最も代表的なものといってよい。もう一つの言葉が、これらと密接にかかわりつつ用いられるのだが、それはあとで登場するだろう。 》110頁

《 すなわち「芸術家」という言葉を。なぜなら、「芸術家」という概念こそ、天才、独創、個性といった属性の典型的な総合だからである。19世紀という時代が生んだもろもろの新しい流行の中にひときわめだつのが、この「芸術家」概念の流行ということだろう。 》113頁

《 選ばれた者、それの19世紀的な代表者は、美の宗教の司祭たる芸術家にほかならなかった。 》113頁

《 さて、こういう形で成立した「芸術家」の概念は、さまざまの興味深い結果を生む。たとえば、詩を書かない詩人、絵を描かない画家というような矛盾した存在が、かえっていっそう神秘化されるというケースがある。「作品」よりも「芸術家」自身の方がより高次の概念となる場合に、こういうことが生じる。たとえば、その神秘的な沈黙と無為の時間によって、マルセル・デュシャンは神格化されるにいたった。 》113頁

《 キュビスムが、人のいう「幾何学」を夢中になって追求した結果、絵はかえって主観性の深淵に深くはまりこみ、この「イメージ」の浮遊を押しとどめるために、「オブジェ」とよばれる客体世界の断片を、貼り絵(パピエ・コレ)のようなかたちでもう一度画面に導入しなければならなかったという事実は、絵画における「幾何学」なるものが、いかに数学的な普遍妥当性とは事なる主観的、感性的なものであるかを示して余りあろう。 》122頁

 「アクション・ペインティングとアンフォルメル
《 私がこのエッセーで一瞥したのは、躍動する抽象という形をとってあらわれたその大きな流れの、ある時代における様相にすぎないが、これをこういう観点から眺め、そこに歴史的な持続の明瞭な痕跡を見出し得るということは、この、今は流行の尖端から遠ざかったように見える絵画思潮が、決して一時的な、らちもない逸脱ではなかったこと、逆にいえば、未来にも確実に別の形で蘇るであろうことの、明らかな証拠であろうと思われるのである。 》127頁

 『現代の美術 art now8 躍動する抽象』、読了。大岡信の論述はじつに刺激的で、ぐいぐい引き込まれた。引用したい箇所が多くて困った。

 窓を開け、朝の光を浴びて温かいコーヒーを飲む。心地よい。昨日は内野まゆみ個展『古人(いにしえびと)の忘れもの』展のチラシと28日の日録に掲載した拙文「美は切片に顕れる」を郵送した方たちから、励ましの電話、メールが届き、いたく感激。落涙。こんなこともあるんだ。うれしい。