『現代の美術 art now 11 行為に賭ける』(閑人亭日録)

 昨晩、ネットに上げようとしたらパソコンの機器の不調でつながらない。いろいろ調べてもらったら、ルーターの不具合(寿命)。私の寿命はどうかな。まだ生きたい。まだ死ぬわけにはいかない。

 というわけで昨日、今日と二日分。


 『現代の美術 art now11 行為に賭ける』講談社(第12回配本)1972年4月28日第1刷発行、針生一郎・編著、「はじめに」を読んだ。

《 芸術の「藝」の字は、が元来、種子をまき、苗を植える農耕社会の生産労働を意味し、西欧のアートやアールの語源も、道具をつくり、生活を営む行為の仕方を意味した。芸術の根源にはこのように、いつも生産と結びついた行為の契機が潜んでいる。だが近代になると、芸術はファイン・アートとして生産や労働から切り離され、美意識を規定する概念におおわれ、しかもその表現や享受の機構自体、商品経済に基づくひとつの制度を形づくるにいたったこういう状況に反逆して、芸術を人間の全体性のうちに奪還しようとする人々は、いつも行為という素朴な始原に立ち返ったのである。 》6頁

2024年10月 6日(日)『現代の美術 art now10 記号とイメージ』続き(閑人亭日録)
 『現代の美術 art now10 記号とイメージ』講談社(第7回配本)1971年10月30日第1刷発行、針生一郎・編著、巻末の「言葉と言葉ならざるもの」を読んだ。

 「言葉と物体」
《 デュシャンが美術の中の「つくること」と「見ること」の意味を根底から問い直したとすれば、それはこれらの慣習を支えてきた言葉という、もう一つの制度を疑うことなしには果たされないことを、彼は明確に自覚していたのである。その点で、彼の観念と作品との間にある微妙な方程式は、言葉との間にも見られるし、言葉と物体の間にも相似的な関係が成立している。 レディ・メイドがひそかな言葉のはたらきをレーダーとして生まれたように、彼の題名やノートやしゃれは、言葉を既成品として利用しながら、その慣習的な意味をたちきり、未知の記号に還元して、アイロニカルな定理を浮かび上がらせる。 》108頁

《 ルネ・マグリットの、一本のパイプを克明に描写し、その下に「これはパイプではない」という文字を書き込んだ一連の油絵やデッサンにも、デュシャンとは別の方角から、しかしある程度共通の問題に向かう姿が見られるだろう。 》109頁

《 いまこの《共通の場》は消滅し、マグリットはイメージを実在の事物から、あらゆる陳述のワナから、免除してやりながら、眼に見える表面だけに固執し、相似の無限のたわむれに熱中する。等しく言葉と、「見ること」とを対応させながら、陳述される意味とともにあらゆる相似的イメージを拒否したデュシャンとは、何と対照的なことだろう。
  しかも、この二人に代表される方向は、いっそう増幅され、多様に分化しながら、第二次大戦後の美術にひきつがれているように見える。 》109頁

 「記号とイメージ」
《 マス・メディアによって複製されたイメージが、まさに現実体験となりつつあるところに、現代文明の著しい特徴があり、そこから絵画と言う記号思考にも新しい展開が要求されているのである。 》113頁

 「複製とアウラ
《 もっとも、60年代後半の美術は、一般的には、再びあらゆるイメージと意味を断念して、物質と行為との直接的なふれあいの方へ、複製のアウラから生のアウラへと転回したようにみえる。芸術家はいまや表現のかなた、制作のかなた、言語のかなたへの、果てしない脱出願望にとりつかれている。だが、どんなに概念の衣装をはぎとってみても、そこにあらわれるのはむしろ「芸術の消滅不可能性」(宮川淳)であり、芸術という概念は作品という物質と無限にひき裂かれながらも、なお暗黙の照合をまぬがれることはできない。こうして、芸術の解体と言語の 危機ともいうべき状況のなかから、美術を再び言葉との関連でとらえ直そうという機運が広汎に高まりつつある。 》118頁

 「表現と沈黙」
《 だが、「現実の言語を厳密に考察すればするほど、現実の言語とわれわれの要求の衝突が激しくなる」とヴィトゲンシュタインが語ったように、言語についてのあらゆる考察は、言葉が多様な矛盾にみちた相関関係のうちにのみ成立する事実に導くだろう。主体の「内なる言葉」を究極までほりさげてゆけば、ついにいかなる言葉も拒否する生のアウラに逢着し、多様な対象のひろがりにみちた世界の方向に拡大してゆけば、ついに現実そのものを仮象化してしまうことになる。しかも、言葉を投げ捨てて素手で現実に飛びこもうとすることも、また言葉の内部にとじこもってこれを物神化することも、むなしい幻想でしかない。とすれば、この矛盾にみちた言葉の構造とその既成性にたえながら、現実のくみつくしえない総体を見つめ、沈黙の領域をひとつひとつ言葉でほりおこしてゆくほかない。そういう課題はそのまま、美術の課題であるといっていいだろう。 》125頁

 言語論にからめた美術論だが、よく理解できなかった。『現代の美術 art now10 記号とイメージ』、読了。
 晴れてきた朝、洗濯物を干して一休み。コーヒーを淹れた時、携帯電話に敬愛する美術評論家から嬉しいメール。晴れ晴れ。