北一明の茶盌を鑑賞していると、これは頂点、完成形だろう。これはあと一歩、富士山でいえば八合目、九合目だろう。ご来光を仰ぐ(耀変)まであと少しだな、と感じる作品(二級品)がある。愛好家は完成品(一級品)を求める。私はどちらも求める。といって全部欲しいわけではない。私がエッセンスと見なすものだけでいい。物欲にはまると終わりが無い。よって、一級品でも二級品でも私にとって魅力のある茶盌を求める。一九九〇年代、北一明自薦の茶盌を、彼の希望価格で購入。たしかに北一明の自薦茶盌は、彼の完成形、一級品だった。私からすれば、伝来の銘品、他の陶芸家の一級品に対して、北一明の茶盌は、特級品すなわち格上、格別の名品。お前がそんな戯言、うわ言を言うか、と顰蹙を買うだろうな。でもこの歳になれば、そのような啖呵を切りたくなる。たかが一市井人の遠吠えなんぞ無視、黙殺してかまわんよ。いずれ後世の人が発見、評価するから、と恥ずかしげもなくズケズケとお気軽に書き留める。
そういえば二十年ほど前、北一明が百万円で買ってくれ、と送ってきた茶盌。私から見ればどう見ても二級品にもならぬもの。これはいらん、と送り返した。そのことから縁がなくなった。後年、「貧すれば鈍する」だなあと感じた。
日頃鑑賞しているのは、二級品と私が見なす茶盌。あと少しで完成品になる手前の茶盌。その完成形を見ているから、これは惜しい、ではなく、完成へ向かう野心作であり、発展途上の伸長する勢いに魅力を感じる。瑕瑾が惜しいではなく、可能性の魅力に成る。
美術品では完成品、一級品が代表作として重視され、評価されている。それはそうだろう。そういうものは美術館に任せておけばいい。何かわからないが未知の可能性を感じさせる発展途上の作品こそが魅力ある。完成形まで到達できずに終わるかもしれないが、それはそれで発展途上の勢いから受ける可能性の魅力は消えない。
私が出合った縄文深鉢土器。それは完成形かもしれないが、非完成・反完成をどことなく感じさせる生命力、隆盛する生の勢いに衝撃を受け、感動に打ちのめされた、快感。その体験から完成は終わりかも、と思うようになった、かな。思い出した。北一明が「白麗肌磁呉須字書碗『人生夢幻』」1989年を見せて、「このたわみがいい」と言った。たしかに。
http://web.thn.jp/kbi/ksina.htm
《 「白麗肌磁呉須字書碗『人生夢幻』」
通常よりも高い温度で焼成することにより、全体をわずかにへたらせた作品です。そのため、口縁はやや楕円になっています。中国の茶碗等に見られる正円正対称の一分のスキもない完璧な美は、「完結終了で」「余情のない美」であるとして退け、「可能性の美、可能性のエネルギーを内蔵した美」こそ自らの追求すべき美とする北一明の考え方がよく反映された作品です。
微妙にたわんだ茶碗が両手の中にすっと収まる感触は、それが焼きものに表現された、きわめて精神的な造形であることを深く感得させます。そして、淡い呉須(ごす)で流麗に書かれた「人生夢幻」が、白磁のたおやかな美しさとあいまって、一際心に沁み入ります。 》
http://web.thn.jp/kbi/kita3.htm
昼前、衆議院選挙期日前投票を済ませる。
今宵、スーパームーン。