『現代の美術 art now 別巻 現代美術の思想』(閑人亭日録)

 『現代の美術 art now 別巻 現代美術の思想』講談社(第13回配本)1972年5月20日第1刷発行、高階秀爾中原佑介 編、高階秀爾「はじめに」を読んだ。

《 めまぐるしく変貌する歴史のなかにつぎつぎと登場してくるさまざまの流派、主義、グループ、傾向が、それぞれ、あるいは自らマニフェストを発し、あるいは自己の美学を開陳し、あるいは批評家の理論的支持を受けるという現代芸術の在り方そのものが、はっきりと芸術の「思想的性格」を物語っている。もちろん、それは、造形活動が単にある理論、ないしは思想の絵解きだということではない。芸術家が外界との接触を通じて、世界の中における自己の位置を確認し、ものと人間とのかかわりあいを確かめようと努力する過程のなかで次第に思想が形成され、そしてまたその思想を手がかりとして世界の新しい探求に向かうという相互的な関係を持ったものとして、「手」と「精神」とは、お互いに分かちがたく結びついているのである。
  おそらく、原始時代の最も早い時期から、芸術活動というものはそういう性格を本質的に持っていた。それが明確に意識されたかどうかは別として、造形表現はつねにまた思想の表現であった。ただ、分析的論理をその極限にまで押し進めていった近代の落とし子である現代芸術においては、思想的なものへの意識が特に尖鋭に認められる。『現代美術の思想』と名づけるこの一巻が、現代の美術の概観と並んでどうしても必要であると思われたのは、まさにそのような理由による。 》6頁

 〔1〕ケネス・クラーク「しみと図形」1963年発表
《 ここで私は、外的現実の模倣がかつて一七世紀中葉から一九世紀に至るヨーロッパ美術の模倣のように再びなるだろうなどと示唆するものではない。あのような視覚感覚への概念服従は、美術史上まったくの例外の現象であった。現代絵画が獲得した領土の多くは、今後も保持されるであろう。 》18頁

《 筆触によって、また物に寄せる本能的な材質感覚によって、直観をじかに伝達する手法と成果もまた犠牲にされるべきではない。私はこれをかけねなしの収穫とみなす。私が発明した比喩を用いるなら、連想を誘発するしみとジェスチュアのしみとは共に生き永らえるであろう。ただそのためには、もっと養分が与えられなければならに。これらのしみは形態と構造についてのより豊かな知識、つまりわれわれに非常に強力に訴えかけて、自然の理法とはこのようなものだと思い知らせる形態と構造の知識と結びつかなければならない。》19頁

《 芸術の目的全般に寄せるわれわれの信頼は変化するかもしれない。いまや芸術は一種の高揚された幸福感をつくり出すべきものと思うと語ったが、その真意は芸術がそれ自体で目的となるということである。(引用者・略)芸術を手段とした表現を希求する新しい信仰が出現するまで、長い時間を待たなければならないであろう。そう私は告白する。(引用者・略)いつそれが起こるか、どんな形をとることになるか、漠然と予見することすらかなわない。》19頁

  『日本美術全集 19 戦後~一九九五  拡張する戦後美術』小学館 2015年8月30日初版一刷発行、椹木野衣・責任編集、「150 雑誌『終末から』表紙絵 味戸ケイコ」椹木野衣の解説結び。
《 もとが版下として描かれたゆえ、用を終えると所在が不明になりがちなこのころの味戸の原画は、幸い静岡県の所蔵家の目に留まり、その多くが大切に保存され、未来に発見されるまでの、決して短くはない時の眠りについている。 》