『現代の美術 art now 別巻 現代美術の思想』三(閑人亭日録)

 『現代の美術 art now 別巻 現代美術の思想』講談社(第13回配本)1972年5月20日第1刷発行、高階秀爾中原佑介 編を少し読んだ。
 〔2〕クレメント・グリーンバーグ近代主義絵画」1966年発表
《 近代美術が理論的な臨床は何もしていないということを、私は繰り返して言いたい。それどころかむしろ、すべての理論上の可能性を経験的な可能性に移し変え、それによって美術に関するあらゆる理論が美術の実際の制作と経験に適しているかどうかを、無意識のうちに実験いていると言えるだろう。近代主義はこの点でのみ、美術をくつがえすものである。美術を制作し経験するために絶対に必要と考えられている多くの要素が、実は必要ではないということが示された。近代主義美術はそういうものがなくてもすんできたし、しかも美術の経験のあらゆる本質的要素を与え続けてこられたという事実がそれを示しているのである。この”論証”をわれわれの古い「価値」判断のほとんどをそのままにしておいたことは、それを一層決定なものにさえしているのである。近代主義はウッチェルロ、ピエロ・デュラ・フランチェスカエル・グレコ、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールそしてフェルメールの名声さえも復活さえも復活させたことに関係があったと考えられるし、ジョットーなどの画家の復活の原因にはならなかったとしても、それを確実にしたことは確かであった。しかし近代主義はそれによってレオナルド、ラフェエルロ、ティツィアーノレンブラント、ワトーの地位を低めはしなかった。過去の人々がこうした巨匠を正しく評価していたとはいいながら、しばしばそれは誤った理由や不適当な理由で評価されていたことを近代主義は明らかにしたのである。
  それでもなお、ある点ではこの状況はほとんど変化していない。美術批評は前近代美術主義のあとから遅れてついて行ったように、近代主義者のあとを追っている。現代美術について書かれているもののほとんどは、正確に言えば、美術批評というよりジャーナリズムに属するものである。近代主義の新しいさまざまな様相が、過去のあらゆる習慣および因襲と決定的に断絶する美術制作の全く新しい時代の幕開けとして歓迎されるべきだというのは、ジャーナリズム──そしてまた、われわれの時代の多くのジャーナリストたちが苦しんでいる一千年来のコンプレックス──に属する考え方である。それまでのものとはまったく違う種類の美術で、しかもそれまでの技巧や好みの基準からはすっかり”解放”されており、したがって知識のあるなしに関係なく、誰でもそれについて意見を言うことができるような美術がいつの時代でも待ち望まれている。そしてそのたびに、ここで問題になっている近代主義の様相が結局はこれまで通りの好みと伝統のはっきりした継続に落ち着き、美術家にも観衆にも今までと同じようなものが要求されていることが明らかになってくるにつれて、この期待は裏切られるのである。
  連続性の断絶という考えほど、われわれの時代のほんとうの美術からかけ離れたものはないだろう。美術とは何よりも、連続性なのである。美術の過去がなければ、そしてまた過去の卓越した標準を維持して行く必要と強制ががなければ、近代主義美術などというものは不可能である。 》51頁

 〔2〕ルーシー・R・リバード「エロス試論」1968年頃発表
《 視覚芸術におけるエロティシズムは、個別感覚と一般的な感覚との、まか不思議な組み合わせだと考えることができる。 》52頁

《 現在の具象美術エロティカの問題の一つは、このエロティカがイラストレーションを凌ぐことは非常にまれであり、凌いだときには、途中で美的な訴求力を失ってしまいがちなことが多い点にある。イrストレーションや、ある程度の具象作品は、挑発的な要素をもつことによって芸術性をなくしてしまうのである。抽象作家は、具象的なコンテクスト内の逸話や装飾性に潜んでいる美的要素に焦点を当て、この要素をいくつかの方向に同時に拡大させることができるという点で、一つの強みをもっている。 》53頁

《 だがアール・ヌーヴォーは、今日の感覚美術にとってごくたいせつな要素である肉体をも同時に抑制した。アール・ヌーヴォーは、装飾的な美しさと表面的な快楽をもちながら、その中に死のような冷たさをほのめかし、淫靡と死を病的なほど直視している。(引用者・略)アール・ヌーヴォーのドライな陰影をもたないエロティシズムは、効果は全く違ってはいるけれど、インド彫刻のしっかりした肉体の落ち着き、あるいはオルデンバーグのオブジェや抽象的”エクセントリックス”の作品のゆったりした好色に似かよっており、これらのすべては不毛ではなくて、精力的なのである。暴力を排除したエロティシズムは、今日の若い芸術家たちの平和主義の方向に適さないはずがない。ついでにいうなら、戦時には、向日的な芸術、全的な生命是認の芸術を主張するのはむずかしいであろう。 》57頁

《 エロティカの分野は、もはやセックスというごく狭く限定された主題の描写にとどまるものではない。視覚反応というもっとも大きな柔軟性がその分野に入るのだし、さらに基本的にはエロティック体験の抽象的性格をもちながら、同時にその中に個人的体験を含むような美術品が、その分野に入るのである。 》58頁

 〔2〕中原祐介「世界の関係像について」
《 そこでここでは、画像的な像というものを、われわれ人間が人間と自然を含む一切に対して、それを視覚的な形象あるいは形態としてとらえ、客体化したものを指すというように定義づけておくことにしたいと思う。それと対比的にいうならば、機能的な像とは、自然を作用あるいは働きとしてとらえ、それを再現したものということができる。 》60頁

《 こういう関係的な像の形成という態度によって、壁や床という現実空間もまたそこへくりこまれるに至ったのは、すでにタトリンのレリーフで見た通りだが、今日見られる美術館の外でのさまざまな現象は、いわばそのスケールを拡大した展開とみることができる。それは野外彫刻ではなく、野外をひとつの関係的な像としてとらえるという意図のあらわれなのである。しかし、話を一挙にそこまでもってゆく前に、なお語るべきことがある。というのは、この関係的な像では、言語、物体、さらには人間の行為も、それらすべてが可能な要素として包含され得るということである。たとえば、「描かれた意味論」ともいうべき絵画では、画像的な像としての絵画と、それとは別にその意味を語る言語の体系というように、一種の分離の上での対応関係が成立するのではなく、画像的な像としての絵画と言語がすでに関係的な像として結びつけられ、われわれはそれについてさらにもう一度語るという重層的な関係に立たされることになる。今日、コンセプチュアル・アートにおいて言語の介入が著しいのは、美術の文学化とはどのような関係もないそれを画像対言語という対応関係でとらえる限り、言語の介入が文学化の現象とみえるに過ぎない。 》66頁

《 「見る」ことがこのようなかたちで提起されているのは、画像的な像ではなく、関係的な像に対するわれわれの態度はいったいどのようなものなのかという次元においてである。描かれたイメージは固定的なものである。しかし、そこになお固定的ならざるもの、変動的なものをもりこもうとするとき、「見る」ことはきわめて不安定な行為となるだろう。それは「現実空間における現実の物体」に対するわれわれの態度と、根本的には同じである。なぜなら、そこでは「見る」ことと有意味な形象のある一義的な安定した関係が、すべてに優先するわけではないからである。
  私はこの章のはじめに、関係的な像が美術から立ちあらわれ、今日的な外貌をもっているという点に「新しさ」を感じさせる所以があるといった。その今日的な外貌というのは、今いった不安定性と過程性ということである。タリトンの「コーナー・レリーフ」の不鮮明な写真の物語っていたのも、そういうことである。もし、画像的な像を指してのみ美術作品というなら、この関係的な像は美術作品ならざるものといわねばならない。私は今、その名称にこだわるわけではないが、作品という概念にある決定的なへだたりを感じさせることだけは否定しがたいように思われる。タリトンの仕事を構成(construction)という動的ニュアンスを含んだことばで呼んだのは、私にはその先駆的予感であったように受けとられるのである。 》67頁

 じつに刺激的な論述だ。再度読んでやっとわかってきた。引用だけではちゃんと理解するのは困難かな。

 我が家の前の大通りはちょっと早いハロウィーンまつりの歩行者天国。すっとんだ化粧、仮装をした大勢の家族連れでなんとも賑やか。子どもの参加者数日本一のイヴェントにして、費用のかからない、楽しい、誰もが主役になれる、なんともゆる~いおまつり。これが三島。