北一明、味戸ケイコ、内野まゆみ、そして奥野淑子、白砂勝敏の五人に共通する特質。知覚の果てのその先への眼差しが、制作行為に影響を与えているのでは、と思う。その先への眼差しとは、なんとも奇妙な表現だが、今はそう書くしかない。手探りの先にある何か。マラルメの詩『賽の一振り』から感じたもどかしさ(隔たりの君臨)もそれだろうと、気づいた。明確な言葉にすると、すり抜けてしまう・・・。彼ら五人のどの作品にも思い当たるわけでない。私がなぜか気になる作品だけ。それにつりたくにこさんのマンガ作品も加わるかもしれない。それらの作品は近くない将来、知覚の地殻変動を来すことがあるだろう。そのときやっと気づかれ、正当に評価される。
凡百の美術家たちは、自身の知覚の届く範囲の近くのもの、ことから表現の範囲が出ることはない。そして彼らの作品が、多くの人から親しまれる。やがて飽きられる。
他愛ないことが、曇天の午睡の目覚めに浮かんだ。
深紅の夕焼け。
宵闇の通り雨。