南伸坊『モンガイカンの美術館』朝日文庫1997年5月1日 第1刷発行を取りだす。これは元本(1983年、情報センター出版局)で読んでいるけど、誰かに貸したら戻ってこないので、文庫で買い直した。「まえがき」から。
《 専門家の美術評論なぞクサルほどある。素人のバカバカしいくらいの美術評論こそを望んでいるのだということです。 》
《 芸術というものが、久しくタイシューとユーリする方向に進んできたみたいですが、ここにきて、ボクにはショミンタイシューのほうから、芸術に興味のマナザシがササリつつあるような気がしている。つまり、ボクのように素人として芸術を面白がる人がふえてきたような感触を感じるんです。
この本が、そういう人たちのサカナになったらという風に、まァエンリョがちに思ったりする今日このごろなんですね。 》
今日読むと、四十年ほど前の心境が思い起こされる。美術評論専門家の小難しい、小賢しい文章に「俺ならこう書く!」と意気込んでいた若い日。この本が背中を少し押してくれたようだ。文庫本で再読した記憶はないなあ。記憶に残っているのは「荒川修作は東洋思想か」。冒頭。
《 いま、私が気にしているのは、「荒川修作が空手が強いかどうか?」ということである。空手が強かったりするとヤバイと思っているのである。なぜヤバイかというと、これから荒川修作先生の悪口をいいそうだからである。 》139頁
《 第一、あんな描きかけみたいな絵をかけて、日本人が驚くと思うか! 俺の友だちなんて会期中に描き上げるのかと思って毎日通ちゃったぞ。ギャグになってないし、なにより「女が描けていない」。これではシューサクの域を出ていないといわれてもしかたない。同じシューサクなら千葉周作のほうがエライし、同じ荒川なら荒川放水路のほうが俺は好きだ!(なんだかわかんないけど)。
ムズカシソーにしてコケオドシをしやがって、「量子物理学の学者の人とオトモダチだ」なんてぬかして、この俺がビクつくと思ってんのか、細菌学者のほうがコワイやい。 》141頁
このくだりには噴き出した。名啖呵。脱帽。記憶に鮮やか。明日に続く。