「美」ということ(閑人亭日録)

 昨日、「美=表現形態の極限を拡張する潜勢力に心が震える」と書いたが、具体例を挙げる。白砂勝敏『木彫椅子 ナゴメイテ』2010年作。
  https://shirasuna-k.com/gallery-2/wood-sculptures-chair/
 そこに掲載された拙文「見出された、かたち」の結び。
《 木彫り彫刻のための素材という地位に甘んじでいた樹幹から、白砂勝敏氏は一木一木が固有にもっていた個性を、十全に惹き出している。 》
 管見では、こういう過程を経た木彫作品は知らない。彼は現在ではマルチアーティストとして活躍の場を得ているが、日本の美術ジャーナリズムで話題になったことは寡聞にして知らない。また、北一明の耀変茶碗。北は、日本の陶芸業界からは黙殺されているが、外国では高い評価を得ている。
 http://web.thn.jp/kbi/ksina.htm
 http://web.thn.jp/kbi/kitaron.htm
 これらの作品は、「表現形態の極限を拡張する潜勢力」つまり、新たな表現形態の出現と見なすことができると、私は直観し、確信した。それは表現形態の革新でもある。それは簡単には真似、模倣できない代物だ。だから、印象派といった流派をなすことはないだろう。それゆえに美術史の欄外に孤高の美術家と置かれる。それでいいじゃないか。優れた美術芸術作品は、空前絶後のものだから。そのような極私的見解は、美術界からは相手にされないだろう。私の目的~夢は、これらの作品が後世に伝わること。価値判断は後世の人に委ねる。

「美しい」と「美」の間(閑人亭日録)

 「美しい」と「美」の違いについて私的見解。
 美しい=表現形態の極みに心が痺れる
 美  =表現形態の極限を拡張する潜勢力に心が震える
 昨日挙げた「KAOSU7」の作家たちは皆、「美しい」作品を制作し、さらに「美」へ踏み込んだ作品をも制作するだろうと私は見ている。その作品に深く感応する人だけが予感する。未知の領域を予感させる兆しのような感触を直截的には語れない。凄いと直観、震撼しても、それを言葉でうまく表せないもどかしさがある。そりゃそうだ。容易く言葉で表すと、的外れになるおそれがある。後年、その評価が的外れか正鵠を射ていたかが明らかになる。「美しい」の評価、「美」の評価は、時代の変遷とともに変化する。美術芸術作品とはそういうものだろう。
 「美」へ踏み込んだと思える同時代の作品に出合うとワクワクするが、作家の没後、時代に埋もれた優れた作品を発見することもワクワクする。その実例が木版画絵師・小原古邨。そして一昨年の秋に出合った久田誠道の創作木版画
 生前から応援していたつりたくにこさんのマンガについて日本の評論家は殆ど話題にしないが、この五年、各国で出版された厚い作品集では熱く語られているようだ。解説文が長い!
 味戸ケイコさんの絵については椹木野衣(さわらぎ・のい)が絵の解説を書いている。

《 しかし、一九八〇年代も半ばとなり、バブル前夜の楽天的な気運がそんな陰りを一掃してしまうと、気づかぬうちに、いつのまにか見なくなっていた。けれども味戸の絵は深く人々の心に沁み、決して消えることはなかった。それどころか、こうしてあらためて見たとき、味戸の絵は、いまもう一度その役割を取り戻しつつあるように思われる。(引用者・略)もとが版下として描かれたゆえ、用を終えると所在が不明になりがちなこのころの味戸の原画は、幸い静岡県在住の所蔵家の目に留まり、その多くが大切に保存され、未来に発見されるまでの、決して短くはない時の眠りについている。 》 『日本美術全集 第19巻 戦後~一九九五』小学館 二〇一五年八月三十日年初版第一刷発行、「150 雑誌『終末から』表紙絵  味戸ケイコ」273頁

 味戸さんは今年も企画展が控えている現役作家。それにしてもなあ、「未来に発見されるまでの、決して短くはない時の眠りについている」とは。あと何年生きればいいんだ。

「KAOSU7」(閑人亭日録)

 しばらく前「KAOSU(カオス)」なる私的造語を披露した。
 K 上條陽子 北一明
 A 味戸ケイコ
 O 奥野淑子(きよこ)
 S 佐竹邦子 白砂勝敏
 U 内野まゆみ
 ここに挙げた作家は、私の推す美術家たち。半世紀余りの美術遍歴、美術探求で出合い、その作品を評価している人たち。今、この人たちを「KAOSU7」(カオス・セブン)と呼ぶ。美術家七人衆の展覧会を開きたくなるなあ。それが最後の展覧会になるかな。作品は揃っている。早くても来年後半か

現役作家(閑人亭日録)

 現在、多摩美術大学の教授でリトグラフ作家の佐竹邦子さん。1997年春、多摩美術大学院生卒業制作展に遭遇。さほど広くないギャラリーで注目したリトグラフ作品に「これ、いいな!」と感想を発したら、そばにいた女性が「私です」と声を上げた。それが佐竹さんとの出会いだった。翌年だったか初個展で小品を購入。
 http://web.thn.jp/kbi/satake.htm
 それからK美術館で企画展(2006年)を催して彼女を応援。
 http://web.thn.jp/kbi/satake3.htm
 木口木版画の奥野淑子(きよこ)さん。
 http://web.thn.jp/kbi/okuno.htm
 銀座の貸画廊からの案内葉書を見て、これは行かねば、と初日に行った。正午の開館時間から三十分ほどして奥野さん到着。寝坊した、と。まあまあ。若いねえ。一点を購入。後から来訪した年配の紳士は「美術雑誌の広告で見た」「いちばん高いものを買う」と仰る。凄いね。これからどうなるかわからないが、と話す。コレクターの鑑と、感服。
 それから奥野さんの木版画を三島の知人たちに宣伝して何点かを買ってもらい、代金をそっくり彼女に贈った。K美術館へ来館されたこともあった。
 某版画雑誌の編集長が、小原古邨作品集に載せるために写真撮影に自宅へ来た。撮影を終え一息ついて、奥野淑子さんのA4版ほどの大きさの木口木版画をお見せした。彼は仰天。「電話してください」奥野さんへつないだ。まさかご存じないとは。それに驚いた。その作品は、私の勧めに応じて日本版画協会展に応募し、落選したもの。展覧会では彼女の名前が間違って表記されていたので事務局へ申し出た。結局、審査員に作品を見極める眼力がないのだ。が、当時の結論。美術団体、美術ジャーナリズムの世界は・・・いやいや書かないでおく。桑原桑原。ネットの時代、類火がどこに及ぶか知れたもんじゃない。それはさておき。私は、奥野淑子さんの木口木版画は戦後最高だと思う。なぜ話題にならないのかな。

 近所の写真店の人から富士フィルムの「あなたが主役の写真展」へ今年も参加を、と頼まれる。今年は白砂勝敏さんの木彫椅子にする。
 https://shirasuna-k.com/gallery-2/wood-sculptures-chair/

アーティスト~作家(閑人亭日録)

 朝のNHKテレビで横浜黄金町の若手アーティストを何人か紹介していた。ここから何人が独り立ちするか、と語られた。制作品をちらっと見た限りでは、ふうんで終わった。最近は自称であれ、他称であれ、アーティストを言えばかっこいい、さしさわりがないという風潮。歳のせいか、なんか違和感がある。美術の世界は厳しい。生易しい業種ではない。制作品が売れるために誰もが四苦八苦している、とは限らない。伝統工芸品などは、まず伝統技術を習得する。絵画ならばデッサンを習得する。基礎技術を習得した後、作家への道を試みる。公募展で受賞しても作品が売れず、自称アーティストで終わる人のなんと多いことか。そしてほんの一握りの作家が、美術史に名を遺す。その美術史も、書かれた時代によって外される作家、忘れられる作家がいる。生前、美術界では知られた作家が、没後急速に忘れられる事例にことかかない。例えば木版画絵師の小原古邨。古くは伊藤若冲河鍋暁斎。この三人は近年再発見、再評価されたが。

 午後、彼女の勧めでスポーツ用品店で渋い青緑のデイ・バッグを購入。両手が自由に使えて重心が安定する。老人は無理しない。ショルダー・バッグよ、さようなら。

「密室における孤独な作業」(閑人亭日録)

 『山崎方代全歌集』全歌集後記で玉城徹は書いている。

《 方代は、きわめて鋭敏な方法意識をもった、その点で、もっとも現代的な専門作者の一人であったと言ってよい。彼の制作は、それ故に、密室における孤独な作業であった。 》 498-499頁

このくだりは埴谷雄高に通じる。山崎方代と埴谷雄高では発表作品は、小説と短歌という文学形式が正反対といってよいし、その表現内容も両極端と言える。

《 それは、衰弱した自己意識が、小さな自分の空間に鎖じこもるといった閉塞感とは無縁である。 》 499頁

 未完の長編小説『死霊』の読後に『山崎方代全歌集』を繙くことで、『死霊』の呪縛(?)からの開放を無意識に求めていたようだ。
 「密室における孤独な作業」から北一明を想起。六年ほど前の拙文「備忘録・北一明」。
 https://k-bijutukan.hatenablog.com/entry/20180124/p1

『山崎方代全歌集』再び・二(閑人亭日録)

 昨日のつづき。付箋を貼った後半。

  ようやく鍵穴に鍵をさし入れるこの暗がりのうらがなしさよ

  なんとなく泣きたいような気持にて揚げ玉を袋につめてもらいぬ

  こんなにも湯呑茶碗はあたたかくしどろもどろに吾はおるなり

  無情とはかかわりもなくあんぐりと砂をつめたる貝ころがれり

  踏みはずす板きれもなくおめおめと五十の坂をおりて行く

  還暦の祝いの酒を買って来てひとりぽつんとかたむけており

  みかん箱ふせたる上に絶望の箸と茶碗が並びおる

  広辞苑辞書を枕に駆け巡る半偈の夢を見ることにする

  ことことと雨戸を叩く春の音鍵をはずして入れてやりたり

  そなたとは急須のようにしたしくてうき世はなべて嘘ばかりなり

  欄外の人物として生きて来た 夏は酢蛸を召し上がれ

 「欄外の人物」。これは効く。深く響いてくる。嘆き節ではない、ほろ苦い可笑しみ。諦念でも諦観でもない。いろいろあった。これからの生き方を思う。
 「熾2018年10月号掲載 現代ストレス人に捧げる山崎方代の癒やし歌」が興味深い。
 https://kouetsusaito.web.fc2.com/houdai.html