2022-03-01から1ヶ月間の記事一覧
昼前、友だちと三嶋大社へお花見に。その前に大社そばのはま寿司で腹ごしらえ。鳥居の前でナンバー1122の黒塗りの車が停まる。新郎新婦が降りてくる。 いかにも今風な若い新婚。祝福。吉野桜は満開。 花見を楽しんで某ギャラリーの展示を見、それから知…
上條陽子さんから「上條陽子とガザの画家たち 希望へ・・・」展(4月22日~6月13日)佐喜眞美術館の案内状が 届く。 https://sakima.jp/ 水沢勉の推薦文冒頭。《 上條陽子。その止むことのない創作に接するたびに、この表現者には、通常の空間の遠近法…
北斎道子展開場から撤収完了まで開場で接客などのお手伝い。大好評、ほぼ完売。買えなかった人は嘆く。絵をめぐる興味深い人間模様。面白かった。午後六時帰宅。 コーヒーが旨い。 ネット、うろうろ。《 「武器をもって戦う」と徹底抗戦を宣言した[キーウ市…
朝、柏倉康夫氏へコピーと『賽の一振り』の感想を認めた封書を郵送。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%8F%E5%80%89%E5%BA%B7%E5%A4%AB 北斎道子展の接客のお手伝い。午後、友だちのメル友が埼玉県から車で来訪。三島駅東のそば兵衛で蕎麦を堪能。源兵…
昨夜、ステファヌ・マラルメ『賽の一振り』の関連で北一明『炎の造形』山海堂1985年4月8日初版を開き、”炎の主導権を握る”という表現を確認。 明日コピーをとろうと就寝。そして真夜中にふっと目覚めた。入沢康夫詩集『わが出雲・わが鎮魂』思潮社(1968年4…
開場から午後六時まで、北斎道子個展にほぼ居っぱなしで接客のお手伝い。きょうも楽しい出会いがあった。帰宅して友だちとあれこれ話しが弾み、読書は手つかず。 『賽の一振り』の訳者柏倉康夫氏へ感想を書く予定だったけど、必要なコピーをできず仕舞い。ま…
柏倉康夫・訳 ステファヌ・マラルメ『賽の一振り』月曜社2022年3月18日初版、読了。 訳者解説の一節。《 詩が描き出す舞台の書割りの壮大さからみても、遺贈されるのは単なる詩作の技法だけではなく、考えることを唯一の武器に宿命に挑もうとする人間の意志…
柏倉康夫・訳 ステファヌ・マラルメ『賽の一振り』月曜社2022年3月18日初版、「訳者解説」を読んだ。なんと、きょう北斎さんに、昨日書いた「飛び抜けていい!」 絵の購入する旨を伝えたが、この「訳者解説」を読んで「賽の一振り」とその絵が交錯している、…
柏倉康夫・訳 ステファヌ・マラルメ『賽の一振り』月曜社2022年3月18日初版、詩「賽の一振り」を読んだ。二十頁余の詩だが、何とも面白い、と言っては失礼だが、 横書きの活字は大小さまざま、一言半句一行は、見開き二頁を飛び交う。最大活字の言葉を拾うと…
エドゥアルド・コーン『森は考える 人間的なものを超えた人類学』亜紀書房2016年3刷、「エピローグ 超える」を読んだ。《 創発とは、断絶の間にある繋がりをたどるために用いた専門用語である。超えるは、より広がりのある一般用語である。人間の言語を超え…
エドゥアルド・コーン『森は考える 人間的なものを超えた人類学』亜紀書房2016年3刷、「第六章 生ある未来(と軽くなった死者のはかり知れない重さ)」を読んだ。 難解、私には。メモ。《 あらゆる自己がそうであり、単に人間的な諸自己だけが諸々の〈私〉で…
エドゥアルド・コーン『森は考える 人間的なものを超えた人類学』亜紀書房2016年3刷、「第五章 形式の労なき効力」を読んだ。論述は多岐にわたり、かつ、 「形式の労なき効力」という主題に収束する。付箋は林立するが、引用に迷う。で、結びのページから引…
エドゥアルド・コーン『森は考える 人間的なものを超えた人類学』亜紀書房2016年3刷、「第四章 種=横断的ピジン」を読んだ。以下、メモ。《 他なるたぐいの存在の観点をある程度受け入れることは、私たちがその存在「と一緒に」他なるたぐいに「なる」こと…
エドゥアルド・コーン『森は考える 人間的なものを超えた人類学』亜紀書房2016年3刷、「第三章 魂=盲」を読んだ。以下、メモ。《 生命もまた、自己という質が身体化される特定の座の制約を超えて広がる。生命が潜在的に存在できるのは、何らかの記号論的な…
エドゥアルド・コーン『森は考える 人間的なものを超えた人類学』亜紀書房2016年3刷、「第二章 生ある思考」を読んだ。《 私が言わんとするのは、人間的なるものを超えた世界とは、人間によって意味を与えられる意味なき世界ではない、ということである。 》…
エドゥアルド・コーン『森は考える 人間的なものを超えた人類学』亜紀書房2016年3刷、「第一章 開かれた全体」を読んだ。知の枠組みの転換を図る論述だ。興奮。 読み進めないはずだ。固着した思考を一旦ほぐさないと、その先に進めない。《 生命の記号過程は…
エドゥアルド・コーン『森は考える 人間的なものを超えた人類学』亜紀書房2016年3刷、「第一章 開かれた全体」を少し読んだ。《 ヨーロッパを地域化するということは、そのような理論(そして進歩、時間などについてのその想定)が、それ自体が産出された特…
エドゥアルド・コーン『森は考える 人間的なものを超えた人類学』亜紀書房2016年3刷、「第一章 開かれた全体」を少し読んだ。《 本章で、また後の章でも議論するように、構成的な不在は進化のプロセスの中心にある。例えば、有機体のある系統(リニージ)が…
エドゥアルド・コーン『森は考える 人間的なものを超えた人類学』亜紀書房2016年3刷、「第一章 開かれた全体」を途中まで読んだ。野心的な論述。じつに面白い。 じっくり考えさせられる。が、読む力も考える力もきょうは尽きた。安易な引用はできない。 午前…
エドゥアルド・コーン『森は考える 人間的なものを超えた人類学』亜紀書房2016年3刷、「序 ルナ・プーマ」を読んだ。人類学の転換を図る壮大な視点が語られる。 https://www.akishobo.com/book/detail.html?id=746《 そのことを成し遂げるには、人間的なるも…
『世界詩人全集 10 マラルメ ヴァレリー集』新潮社1969年8月20日発行、「付録23」井上究一郎「マラルメとヴァレリー」が読ませる。《 文学者相互の影響というものを考えるとき、それはある共通の感動地帯とか、ある親近の価値判断とか、ある言語の類縁表象…
柏倉康夫 訳『新訳 ステファヌ・マラルメ詩集』柏倉康夫2017年6月30日発行、限定百部第66番を再読。前回同様、これは何だろう、という読後感。うーむ。 シャルル・ボードレールやランボー、マルドロールらは面白かったが。今回気になったのは「扇 (マラルメ…
北一明は十歳の時に敗戦を迎えた。教師たちの一夜にしての変節(軍国主義から民主主義へ)に、教師ら大人たちに深い不信を抱いた。そして信じられるものは土しかない と実感した。ということの出典を著書『ある伝統美への反逆』三一書房1982年3月31日初版で…
四半世紀ほど前、小原古邨の木版画に出合い、名前の読み方もわからないまま、木版画に惚れて購入。当時インターネットとは無縁だったので、”おはらこそん”と 知るまでに時間がかかった。横浜そごうの平木浮世絵美術館で小原古邨展があったのを知り、会場へ赴…
「狂歌書」猿真似太夫(こと御沓幸正)の後半。《 無邪気さのかくれんぼこそ上手なれ末は苦しく横恋慕する 世の中はうしの歩みかちヽとしてかくかくしかじか過ぎてゆくなり 春は土筆秋は松茸喰らひつヽおのがしゞこそ愛しかりけれ 年寄のたゞ楽しみの朝寝を…
昨日で『吟遊星』の記事は終わるつもりだったが、『吟遊星』12号1981年2月14日発行掲載の「狂歌書」猿真似太夫(こと御沓幸正)が見つかったので前半を紹介。《 見渡せば飯もうどんもなかりけり裏の蕎麦屋の秋の夕暮 風流の遊びはとうに隅田川本所そこらは…
『吟遊星』10号1979年10月1日発行、柿本人真似(こと御沓幸正)「浅才馬鹿集」後半。《 高き屋にのぼりて見れば排気ガス民の車は混み合ひにけり わが席は後ろの立見しかすがに屁こきてみれば人騒ぐなり ぬばたまの髪もふけゆけば白々と清き鏡にひとりしば…
『吟遊星』10号1979年10月1日発行、柿本人真似(こと御沓幸正)「浅才馬鹿集」は、記憶にずっと残っている。ネットにあげたつもりだったが、記憶違いのようだ。 前半を掲載。後半は明日。《 酒飲みて夕波千鳥ふらつけば心も四の五の言はんとぞ思ふ 春すぎ…
《 明治三十一年始めて真美協会を起こして、真美大観を発行し次いで、審美書院を設立して以て美術書刊行に従事す、余昨秋故ありて審美書院を去り 専ら工業方面に鞅掌しつつあり 本務の傍ら芸海社を起こしその最初の事業として茲に本書を刊行す。 (郡芳清玩…
御沓幸正氏の『吟遊星』14号1982年8月30日発行のことを以前書いていた。 https://k-bijutukan.hatenablog.com/entry/20150523/p1 「浮世雑詩」から他の詩を少し。《 生物改良学者の研究テーマは 又しても 馬と鹿を掛け合わして何が 生れるか 人間でないこ…