裸体と性

 昨夕帰りがけにブックオフ長泉店で二冊。和田誠「物語の旅」フレーベル館2002年2刷、大崎梢「配達あかずきん」東京創元社2006年帯付、計210円。

  朝、源兵衛川の清掃を終えてグラウンドワーク三島事務所で、一緒に清掃した女子大生に恩田陸夜のピクニック」新潮社2004年帯付と昨日買った大崎梢「配達あかずきん」東京創元社2006年帯付を贈る。この前贈った加納朋子の二冊はすぐに読んでしまったという。今回も彼女の好みに合うといいなあ。

 午後四時、フォーク歌手高石ともやが、自宅裏のお寺に歌を奉納に来るという。彼のウェブサイトを見ると、確かに。四時からと言ったのに、ネットゲリラ氏は早速見に行ったようだ。

 渡辺京二「逝きし世の面影」で何度も読み返してしまった一章が「第八章 裸体と性」。

≪幕末来日した西洋人を仰天させ、ひいては日本人の道徳的資質さえ疑わせるにいたった習俗に、公然たる裸体と混浴の習慣があったことはひろく知られている。日本は、西洋では特殊な場所でしか見られない女の裸が、街頭で日常的に目にしうるという意味でも「楽園」だったのである。≫296頁

 以下、西洋人の仰天したさまを数々の文献から紹介してくるのだが、その仰天具合がじつに愉快。 ホジソン(1821- 1865)の場合。

≪江戸での経験を次のように記している。「男女の入浴者が入り乱れて、二十軒ばかりの公衆の小屋から、われわれが通りすぎるのを見物するために飛び出してきた。皆がみな何一つ隠さず、われわれの最初の両親(アデムとイブ)が放逐される前の、生まれたままの姿であった。こんなに度肝を抜かれたことはなかった。……男女の入浴者が全員、裸であるのに平気で、意識も顧慮もせず、新奇な光景をゆっくり見て、好奇心を満足させようとした。」≫314-315頁

≪当時の日本庶民には、ことさら裸を隠さねばならぬような、性にまつわるオブセッションはなかった。その意味で彼らの性意識は抑圧を知らず、開放されていた。≫315頁

 まさに「逝きし世の面影」だ。

 ネットの拾いもの。

≪即答といえば、気がある女の子に電話した時に

 「まさか、私に告白する気じゃないでしょうね」

 と言われた。≫