「味戸ケイコ 逆光の美」(閑人亭日録)

 荒天と言いたくなるような天候。家から一歩も出ず、お買いものは明日へ延期。味戸ケイコさんへ手紙を認める。が、やや、貼る84円切手がない。郵便局はまだ開いているが、出る気がしない。明日に延期。
 味戸ケイコさんの絵の魅力、いや美の魔力とは何だろう、竹久夢二蕗谷虹児中原淳一ら一世を風靡した、と過去形で語られる懐かしい画家ではない。先達の三人が輪郭鮮やかに語られるのに対し、味戸ケイコさんについてはなぜか口ごもる。私にはそう見える。さり気なく爆弾を抱えているような、と言えば語弊があろうが、いざ絵の懐に入ってしまえば、美の魔力にはまってしまう。自らの背後の影に、己を見てしまうような。それはコワイことでもあるが、気づかなかった自分の影(本当の思い)に気づいてしまうことでもある。それは自らを無意識に束縛していた感性の解放へつながる。隠さず臆さず、ぶちまけていいんだよ。と、味戸さんの絵はもの静かに気づかせる。これはまさしく「可能性の美、可能性のエネルギーを内蔵した美」なのだ。絵本という発表媒体ゆえに「ああ、絵本画家ね」、抒情詩の挿絵ゆえに「ああ、抒情画ね」と、既成の枠に押し込めてしまう。絵の深い魅力に気づいたとき、味戸ケイコさんの絵は、漆黒の宇宙に浮かぶ上弦の月のように見えてくる。いや、昨日話題の『緒方光琳筆 四季花木圖屏風一雙』の「金地に浮かぶ黒色の上弦の月」といった方が的確だろう。「味戸ケイコ 逆光の美」。