可能性のエネルギーを内蔵した美(閑人亭日録)

 中国官窯の陶磁器は格調高く、意義正しい正式な礼装を感じさる。そこには一分の隙、崩しも見られない。中国人にとっては左右対称、正円、正四角等、かっちり、きっちりが価値観の軸をなすように思われる。対して北一明の茶盌は、そこからやや外れている(崩している)と見える。三十年ほど前、北が新作の茶盌「白麗肌磁呉須字書碗『人生夢幻』1989年を私に見せて自慢げに言った「通常の温度よりも高く焼いたので、少し歪んだ。この歪みがいい。」。口縁は正円ではなくやや楕円になっている。たしかにわずかな歪みが、かっちり、きっちりの格調高さの、ある意味型苦しさから逃れている。「人生夢幻」。この呉須字が効いてくる。これは日本人独特の感性なのかもしれない。作品に寄せた「ひとこと」は、二十年あまり前、静岡新聞に掲載された拙コラム。
 http://web.thn.jp/kbi/ksina.htm

《 中国の茶碗等に見られる正円正対称の一分のスキもない完璧な美は、「完結終了で」「余情のない美」であるとして退け、「可能性の美、可能性のエネルギーを内蔵した美」こそ自らの追求すべき美とする北一明の考え方がよく反映された作品です。 》

 今にして気づくのだが、「可能性の美、可能性のエネルギーを内蔵した美」こそ私の高く評価する美術作品なのだ。私のいうKAOSU、七人の美術家たち。
 K 上條陽子 北一明
 A 味戸ケイコ
 O 奥野淑子
 S 佐竹邦子 白砂勝敏
 U 内野まゆみ
 それにしても、二十年前から進化(深化)していないなあ、私は。お歳だし、退化していない(多分)だけいいか。