アーティスト症候群

 大野左紀子『アーティスト症候群』明治書院2008年3刷を読んだ。帯には坂本龍一日比野克彦横尾忠則ジュディ・オング工藤静香八代亜紀片岡鶴太郎村上隆草間彌生蜷川実花ジミー大西ピカソアンディ・ウォーホルゴッホなどなど。彼らが俎上に上がる。消しゴム版画のナンシー関みたい。

《 これは紛れもなく、優等生の作品である。優等生だけに、破綻も隙もないが芸風は古い。普通、そういうのをよくできた凡作と言う。しかしそんなことは誰も言えない。 》 ジュディ・オング木版画

《 だが、絵は正直である。茨城あたりの県道沿いのスナックのママに「一枚お店に飾っておこうかな」と思われそうな雰囲気がある。いや、狭いスナックなんかに飾ると、かえってあの不安定さが増幅されて良くないかもしれない。 》 工藤静香の絵

《 片岡鶴太郎は「画伯」というより「画箔」である。(略)つまり鶴太郎は、「型」を真似るのが大変上手かったということである。それ以上でもそれ以下でもない。 》

 前半はこんな評が続き、後半は自らの経験に基づいたアーティスト論。

《 だから今、アートとアートでないものの違いは、それが発表される環境、流通する業界、語られる文脈によってのみ識別されることになっている。 》126頁

《 アーティストの技術は、アイデアを過不足なく具現化するためにあるのであって、職人的なワザだけをいくら「すごいでしょう」と見せても無意味である。 》132頁

《 職人は昔から匿名に甘んじる存在であり、アーティストはその固有名詞が重要である。職人は技術を重んじ、アーティストはオリジナリティを追求する。 》142頁

《 職人の製作物は生活用品であり、アーティストの制作物は「用」とは無縁の芸術と呼ばれる。 》142頁

《 言い換えればアートは誰のため? 何のため? という受け手の問いを喚起し続けるだけのジャンルとも言える。職人やクリエーターは「応える人」であるが、アーティストはいつも「問う人」として受け手の前に現れるのである。 》164頁

《 芸術家とは常に歴史の尖端に立ち、前人未到の地に挑戦するものである。誰も考えようとしなかったところで考え、誰もしようとしなかったことに挑むものである。 》203頁

 と、前世紀に流通していたアーティスト論芸術論を紹介し、著者は省みて考える。

《 もし、前のものを批判し乗り越えていくという近代美術以来の命題を本当に根幹に据えていたら、飽和状態のまま延命していくだけのアートから降りることが、一番正直な選択ではないだろうか。 》227頁

 美術は世界認識の一手段と、私は考える。二十一世紀、芸術は根本的な転換期にあると思う。アーティストの意図からではなく、受け手の認識から美術品を再評価する。歴史的に意義のある作品と美術作品として後世に遺すべき優れた作品を区別すること。職人芸、芸術という区切りを取っ払ったところから、商品と作品を洗い直す。賞味期限切れの芸術作品、芸術論から斬新な美術論の構築へ。( 誰がする? )

 ネットのうなずき。

《 「バスに乗り遅れるな」というのは日本人を鼓舞する最も効率的な言葉であるが、そこには「バスの行き先を決めるのも、バスを製造するのも、バスを運転するのも私たちではない」という深い諦観がこびりついている。人類がどこにゆくのか、その行き先を誰が決めるのかという問題について、それは自分ではないかということについて一瞬も考えたことのない人間だけが「バスに乗り遅れるな」という言葉に絶望的な切迫感を感じるのである。 》 内田樹

《 政治と宗教の話はしてはいけない、とは、なんとはなしの大人ルールになってるけど、葛藤や対立を避けるような会話ばかりを選んでる場合じゃない時代に、生きてしまっていることを自覚した夜。 》

 ネットの拾いもの。

《 吊吊吊吊 ←これクラフトワークの絵文字らしい。 》