水位は静かに変動する

 16日灯籠流しに行って驚いたのは、一週間前に行ったときには枯山水だった水泉園(白滝公園)の湧水池が、完全な池になっていたこと。一週間たらずで池になってしまうとは。毎日見ている楽寿園小浜池の水位だけど、中旬になって水位がやらに早く上昇している。株価の変動には興味がないけど、小浜池の水位は気になる。まさか株価と連動なんかしてないよなあ。いや、ガソリン価格か。

 昨日引用した「オー・ヘンリー ショートストーリーセレクション」の郄樹のぶ子評には興味深い一節がある。
「いや、愉しんではいないだろう、物語の輪郭つまり線だけで、人間の本質と人生を描きだすためには、さぞ脂汗も流したはず。輪郭線だけで世界を切り取ったピカソの方が、輪郭を消して現実の印象を描いたターナーやモネより、ラクだったとは思えない。理に落ちた作意が正当に評価されない不満は、絵画においては抽象画としての評価でいくらかは癒されたかも知れないが、文学においては不当なまま置かれている気がする。ともかくスマートな手さばきは評価が低い。」
 この一節が引っかかっている。それに恥ずかしながら頭では「作意」とわかっていながらパソコンでは「作為」と記述を誤っていた。
「作為」とは、第一義は「あることに見せかけようと、わざと人の手を加えること。」
「作意」とは、第一義は「芸術作品における作者の意図・趣向。」
 以上「大辞林 第二版」より。「作為的」はあっても、「作意的」はない。
「理に落ちた作意が正当に評価されない」で連想するのは、当美術館で常設展示している北一明氏の陶芸作品だ。北一明氏は、理詰めで焼成釉薬と土の関係をとことん研究し、前例のない究極の美「耀変」を創造した。「窯変」といった低次元で自慢している自称陶芸家とは格が違いすぎる。まさしく「作意」の「耀変」だ。

 下見で昼前に初来館した画家は、展示中の安藤信哉の絵に驚いた。上條陽子さんの絵に美しいと感想をもらした。味戸ケイコさんの鉛筆画の深さに心打たれていた。「(これまで来なかったのが)恥ずかしい」と思わず口にした彼。正直な人だ。

 ブックオフ長泉店で二冊。「増補新装 西洋美術史」美術出版社2004年4刷、巖谷國士「ヨ−ロッパ 夢の町を歩く」中公文庫2000年初版、計210円。