乳房の厳しい選択

芸術新潮」2008年4月号の特集「芸術新潮がえらぶ ヴィーナス100選」を見て思うこと。ヴィーナスって乳房が小ぶり。小さいならまだしも、男じゃねえよなあ、情けねえ〜と思わず与太を飛ばしたくなる胸も。ルノワール「ブロンドの浴女」 1881年の胸は無垢な美しさに満ちているだけに危険。しかし下半身が豊満過ぎて尻に敷かれてつぶされそう。目次には「古代篇」「中世・北方篇」「ルネサンス篇」「マニエリスム篇」「19世紀篇」と分類され、短いコピーが付いてるのは、山田五郎の「百万人のお尻学」を参照したのだろうけど、あの強烈な説得力には遠く及ばないのは致し方ない。いっそのこと山田五郎に任せてしまったら愉快なものができただろうに、もったいない企画だ。

 小特集もなかなか読ませる。「『見る』から『買う』へ アートフェア東京で起こっていること」。2008年4月上旬に催された(この号が出た時は開催前)「アートフェア東京2008」にかかわる四人のギャラリストが語り合っている。 浦上蒼穹堂の浦上満の発言。

「先程、現代美術と古美術をわけて考える必要はない、ということを言いましたが、中国の古陶磁はそもそも、時を経たことでつく味は重視しません。大事なのは、宋でも元でも、その時代の最先端の技術だったということです。現代から見れば、何百年、何千年前のものですが、その時はバリッバリの最先端。なおかつ技術だけではなく、形がいい、デザインがいいということがあったわけです。ともすると、ただ古いだけというものを有り難がる人もいますが、それは古物であって、古美術じゃない。本当によいものは、できたときから『よくこんなものができたな』というものだったと思うんです。それがたまたま無事に何百年何千年も伝わったから、余計われわれは拍手喝采で迎えるのであって、ただ古いというだけじゃ、あらそう、ってなもの。」

「例えば、国宝の宋時代の天目茶碗がありますが、もしオークションに出れば10億円はするでしょう。しかし、同じ時代に同じ窯で焼かれた茶碗の中には、5万、10万で買えるものがあるのです。」

「恐らくどなたもほしいとは思わないはずです。どんな時代でも、そういう厳しい選択はある。」

 五木寛之「人間へのラブ・コール」講談社1980年収録、焼きものブーム考」から。

「< 古岸 >や< 卯花墻 >などという極めつきの名品が意味を持たなくなるような、違った次元の評価の体系が生まれてこなければ面白くもくそもないと思うのだが。」1976年

 五木寛之の発言から30年余、浦上満が吠えても、日本の「厳しい選択」のない焼きもの世界は相変わらずのようだ。北一明氏の焼きものにたいする業界の黙殺を今更ながらに思う。