時感差

 昨夕、帰りがけにブックオフ長泉店で二冊。遠藤武文「プリズン・トリック」講談社2009年初版、「江戸川乱歩と13の宝石 第二集」光文社文庫2007年初版、計210円。前者は江戸川乱歩賞受賞作。八月に出た本。静岡新聞の大きな広告が記憶に新しい。

 きょうも秋晴れ。午後、おば様たちそしておじ様たちが陸続と来館。賑やか。皆様、口々に感想を述べられる。絵を描いている人はどんな色を重ねたのか、どういうふうに描いたのかと質問。そしてへえ〜。

 夏目房之介「不肖の孫」は、引用したい箇所が他にいくつもあるけれど、今回はこれ。「子供と大人の時感差」中の「幻想としての大人」から。

《年齢的に<大人>の範疇に入る歳になっても、私の自意識はいつまでたっても<大人>にならなかった。<大人>を理想化しすぎたのか。時代が<大人>を解体してしまったのか。どれも、それなりの真理である。けれど、人間が内面への自意識なんてものを持っていたら、これは原理的に<大人>になりえないんである。少なくとも、伝統的な様式としての<大人>にはなれない。自意識とは、<青年>性の謂(いい)であり、大人と子供の中間過程だからだ。》

 夏目房之介とは同世代。「十代の頃の夏」「ちらり」「デート」にしみじみと共感。私が大学生の時の思い出。

《僕はまだ彼女の手に触れていない。ちぐはぐな会話を何時間もして、あきると歩き、疲れると喫茶店に入る。その繰り返しだ。》

《純情と身勝手の矛盾に気づいてすらいなかった頃の話。》