奥泉光「葦と百合」集英社1991年を昨夜読了。現実と虚構(幻想)がメビウスの輪のように、ある時点で接続する。そんな小説だ。彼の「グランド・ミステリー」1998年を連想した。ミステリアスだけれども、ミステリではない。なぜなら解決がないから。それゆえ、カタルシスは着地点を見いだせず、宙づりにされたまま空中に留まる。「グランド・ミステリー」と同じような読後感。作中で何度もキー・ワードのように言及されている、
≪『R・シューマン 「幻想曲」 ハ長調 作品一七 マウリツィオ・ポリーニ(ピアノ)』≫260頁
を、きょう1973年の録音のLPレコードで聴く。やはり私の好みはショパンだ。芸術談義が面白い。
≪芸術とは一つの精神の運動であって、結局近代的な現象なんだ。ミケランジェロだってベラスケスだって、自分が芸術をやってるなんて思っちゃいない。あるのは優れた技術、アートだけさ。フォルムを破壊し創造する運動こそが絵画芸術の本質だなんてのは、せいぜい印象派以降のことなんだね。それで様々なイズムが乱れ飛んで、ついに運動は破壊すべきものを失ってエネルギーをも失う。そこで芸術は終わる。だからと言って絵画が無くなるわけじゃないが、少なくとも芸術といったものにはもはや場所はない。それに気づいた絵描きは愕然とする。しかし絵を描くのはやめない。何故だと思う?」≫ 150頁
≪「何故なら彼は錯覚しているんだ。自分の描くものが芸術になっていくなんて間抜けなことを考えているんだね。(以下略:引用者)」≫151頁
本年最初の読書は、昨日、つまり大晦日にブックオフ函南店で買った「平松洋子の台所」新潮文庫2008年初版105円。友だちから依頼された探求本。食の本はさほど興味がもてない。と書くと、食は大事! と、どやされそう。それにしても、昨日同様、きょうも風がやったら強い。吹き荒れる感じ。そんな強風をついて昨日は自転車を走らせたので、帰宅すると汗ビッショリ。下着を着替えた。きょう、向かい風に再び挑む気力は無し。元日くらいのんびりと。で、すむかな?