美術館へ来る前に一昨日刈って日干ししてあった雑草を48リットルのゴミ袋に入れる。用意した20袋では足りなかった。よく刈ったものだ。
橋本治『人はなぜ「美しい」がわかるのか』ちくま新書2006年6刷を読んだ。口語饒舌体とでも言うのか、あっちこっちへ飛んでいく話題に引き回されながら、読まされてしまった。読んでから気づいた、この題名の見事さを。
≪もっと単純に、人として生きる生活レベルから「審美学」に斬り込むことはできないだろうか?≫
興味深い知見がいくつか。まずは「あとがきのようなおまけ」から。
≪前近代に孤独はありません。前近代は「こう生きていけばいい」という、生き方のシステムがはっきりしている時代です。≫ 252頁
この言説から、小原古邨、川瀬巴水、高橋松亭らの新版画(新板画)の特色を連想。彼らの木版画には「孤独」がない。すなわち年代は近代の大正なのに、彼らは前近代の中にいた。前近代だから時代遅れだというのではない。二十世紀前半は前近代と近代とが混ざり合っていた時代だったということ。対する新興勢力の創作版画は、自立への意気込み(あせり)=孤独があった。熟成した技術(その先の展開がない)の新版画に対する未熟な技術(=未来が開けている)の創作版画。そのせめぎ合い、競う構造を見通さないと、近代日本美術の全体像が半端になってしまう。
それはまた、洋画(油彩画、水彩画)界での脂派紫派らの絵と前衛美術グループの絵との関係にも言えるのではないかと思う。こちらは知識不足でこれ以上の言及はできない。それらを人間関係ではなく、作品本位で選別していくことが早急に要請されていると思う。作品の主題、制作の仕方が古い新しいという区別ではなく、その作品が21世紀の現在も新鮮なのか、あるいは既に古ぼけてしまっているのかを曇りない眼で判別することが要諦だろう。
このブログの数少ない読者の数少ない女性読者の女友だちが肋骨を痛め、笑うと痛いというので、ブログのお笑いをしばらく休むことに〜。で、真面目な拾いもの。
≪ 日本の親は、「人に迷惑かけちゃダメですよ」と教えるが、インドでは、「お前は人に迷惑かけて生きているのだから、人のことも許してあげなさい」と教えるそう。前者は、息苦しさを、後者には、ホッとするものを感じる。迷惑かけずに生きられるわけない。≫
書き忘れ。一昨日ブックオフ長泉店で二冊。高木彬光『「横浜」をつくった男』光文社文庫2009年初版、ジョン・ハート『川は静かに流れ』ハヤカワ文庫2009年3刷、計210円。